見えないものは、「ない」もの?

先日、前回の記事を取り上げてくださったとあるメルマガの前説(ここで読めます)に対して、こういうことを書きました。

それに関する話を一つ。

妻は軽度のADHDを自覚し、その最大の特徴の一つである「モノを片付けられないこと」がバッチリ当てはまります。結婚するはるか前から、片付けは苦手だそうです。で、聞いてみました。なぜ片付けられないのか?すると、意外な答えが返ってきました。

モノが自分の視界から消えると「ない」ものと認識されるから、というのです。

例えば、中身が見えない引き出しにあるものを片付けると、途端に自分がどこにしまったか忘れてしまう。だから、視界に入っていないと忘れるのが怖いのだ。引っ張り出すのが面倒なのだ。もっとも視界にあっても存在を認識できないことはあるようですが、これは私もままあること。

さて、ある程度片付けができる人が、引き出しにしまって見えなくなったモノを思い出すのに、どうしているでしょうか?なんらかのメモなり、頭の中の記憶なり、要は現物を思い出すためのトリガーがあるはずです。

そのトリガーがある一つの「場所」に全て集約されていれば、そこだけを見ればいいのですが、大抵何箇所かに分散されているはずです。また仮にある一つの「場所」に全て集約されていたとしても、容易に全項目をブラウズできる状態にあった方がいいでしょう。そんなシステムをわざわざ作るぐらいなら、目の前に現物がちらかってる方がマシ、という考えは(見た目はともかく)一理あります。

解決策としては、例えば引き出し自体に何が入っているかを書いておくとか、引き出し全体の一覧表を作っておく、といった方法が考えられます。妻の引き出しでは見栄えの問題等もありあまりやっていないようですが、子供のおもちゃ等を収めた棚についてはこれらの方法を実行し、それなりに効果が上がっているようです。

つまり、普段は思い出すためのトリガーだけが常に見えていて、いざという時には全項目がすぐに見られるもの。これは、WorkFlowyのようなアウトライナー(定義はこちら(takさんのブログ)がわかりやすいかと)だったらできるかもしれません。しかもWorkFlowyはファイルの概念がないので、探す手間が一段階省けます(これは意外に大きいような気がします)。

そうか、WorkFlowyは思考ツールである、だけではなく「片付けられない」人にとって最適な情報管理ツールかもしれない、とこの本を読みながら思い至りました。

クラウド時代の思考ツールWorkFlowy入門 (OnDeck Books(NextPublishing))
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この「情報管理」はタスク管理も含まれるかもしれませんね。

自己肯定感と承認欲求の間

これを読んで、ハッと思いました。
なんで私のブログはこんなに淡白なのか、ようやく気づきました。

自己肯定感の高い旦那と、私の違いを比較表にしてみた:ひびわれたまご

このブログは「ADHD当事者ママ」の志乃さんが、いろんな意味で正反対の旦那さんと比較されています。私は明らかに「旦那さん」寄りです。私はそんなに自己肯定感が強いわけではないとは思っていますが、(軽度のADHDを自覚している)妻に比べれば、確かにある方です。

で、この比較の後で、志乃さんがズバリと指摘されます。

旦那は「自分は自分である。」と、自分の中で完結しているので、承認欲求や自己顕示欲が低く、それに伴い「他人に気持ちを伝えようとする意欲」が私に比べて低いのが分かります。

はい、その通りです。と言っているような私が、ブログを書いていてはいけませんね。なんで私のような境遇の人のブログが少ないのか、ADHDの方と向き合う一方で性格がADHDと真逆な方のブログがあまり多くないのか、この辺りに原因があるのかもしれません。

この記事で一番気になった言葉が「自他の境界線」でした。自己肯定感と他人への承認欲求の間にあるのか、この境界線のような気がします。

かなり以前、「自分は自分」との思いから、自分の「城」を作るためのブログを書きたい、もっと具体的に言えば情報管理やタスク管理に特化したブログを書きたい、と思ったことが一時期ありました。今もその方面のブログはよく読みますし、時々そういった記事をここで書くのはそのためです。

ただ、広い意味でのライフハック系の分野は、多くの読者を持つブログがたくさんあり、間違いなくレッドオーシャンです。そういう分野でやっていくためには、単なる自己顕示欲の問題ではなく、周囲に流されず自分を強く律することが必要で、そんなことができるか?と思っているうちに興味の対象が変わっていきました。

今、このようなブログを書いているのは、「自分は自分」と思いつつも、ニッチなところで何か人様に少しでも役立つかもしれない、とも思っているからです。強くはないとはいえ、確かに承認欲求はあります。

一方妻は、まさに自他の境界線が弱く「他人事とは思えない」性格です。ワンオペで苦しむ子育てママを応援したいという気持ちが、とても強い。強すぎて足元の我が家のチェックがおろそかになって、こちらがストップをかけなくてはならないことがままあるのですが、ある面ではとてもいいことだと思います。

その妻が「生活が落ち着くと、Twitterでつぶやく頻度が減る」と言ったことがあります。これは、先述のエントリーの続編で志乃さんが言及されていた事実とも関係します。ある意味表裏一体なのでしょう。

これから先も良好な夫婦関係を築いていくために、私がいま大切にするべきことは、「違い」を魅力として、磨いていくことかもしれない。

この指摘はとても大切だと思います。一方で、夫婦生活を続けるうちに、真反対であるお互いの性格を理解するだけでなく、自分の性格が少しずつお互いに近づいていく、ということも目の当たりにしています。それが夫婦生活の妙の一つかもしれません。

追記
人気ブロガーの方が、みんな自己肯定感が弱いということはないとは思います。そのような問題とは別に、ブログに対する強い情熱というのは、間違いなく必要な条件なのだと思います。

感謝の種、考えの種(2)

前回の続きです

かーそる 2017年7月号
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前回、この本のタイトルの前に「文章を」という言葉が省略されている、とわざわざ書いたのはわけがあって、これで「メモを」が前に来たら、きっと異なる話になっただろうな、と思ったからです。

Hiroshi Nagai ロルバーン ポケット付メモ M

私が今使っているプライベート用のメモ帳はこれです。ズボンのポケットにギリギリ入る大きさで、紙質も悪くなく、5mm方眼なので、書き方にあまり制約がありません。しかも、表紙がモノトーンではなく、ポジティブな感覚を受けます。

以前このロルバーンと似たサイズのモレスキンに日記を書いていたことがありましたが、長続きしませんでした。毎日家事育児に追われる身としては、毎日必ず家で落ち着いて書けるとは限らない。かといって通勤電車の中で立とうが座ろうがモレスキンを書くのは物理的に無理があり、日記はいつでも断片的にでも書けるデジタルツールが私にはあっているようです。

今使っているこのロルバーンは、日記向けではありません。カフェのようなとにかく落ち着ける場所で、思いついたことを書く。しかもたいていはこれからやりたいことについての箇条書きが多いです。このブログで書きたいことも書いています。毎日書いているのではありませんが、ゆるいライフログみたいなものかもしれません。

そして、このメモを書く際のルールを二つ作っています。一つは、このメモを書く際はスマホは見ない、ということです。書いているうちに調べたいことがあっても、あえてその場では見ない。そうやって、メモに集中するようにしています。

もうひとつ、このメモは絶対に他人には見せません。自分のためだけの伝言、自分のためだけの断片を書く自分だけの基地、と考えています。そういう位置付けにしてこそ、落ち着いて書ける。家は落ち着けないので(家はある意味常に戦場)、家の中で開くことはほとんどありません。なので、プライベートのことしか書かないのに、このメモの定位置は仕事鞄の中です。

こうやって、書きたい動機を考えていくと、書きたい道具だけでなく、その置き場所まで定まっていく気がします。また、そうやって動機を突き詰めて考えた道具にはそんなに簡単に飽きがこないのではないか、と思っています。もっとも、このロルバーンはたまたま「LOFT」で別の買い物をしている時に見つけたので、そういった偶然も必要かもしれません。

私の書く動機は、感謝の種と考えの種を書くこと。そして感謝の種も、考えの種も、心が落ち着いている時こそ書けるものだと思います。そんな場を提供してくださる道具の皆さんにも感謝したいです。

感謝の種、考えの種(1)

やっと、これを読む余裕ができるようになりました。

かーそる 2017年7月号
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このタイトルは、この前に「文章を」という言葉が(おそらく意図的に)省略されている、と感じました。「文章を」というよりは「ブログを」といった方がいいかもしれません。書いている方々がブロガーなので当たり前といえば当たり前ですが、道具と動機をいろんな意味で深く考えれば、ブログを含む「文章を書くこと」が長続きできるかもしれません。

さて、私がこのブログを書いている動機が、現時点では、3つあります。

一つは、自分を解き放つため
もう一つは、自分を律するため

一つは、日頃仕事家事育児に追われている自分を解き放つため。前回の「かーそる」のコメントでも私は似たことを書いているような気がしますが、今回も、いっきさんの言葉に深くうなずきました。

だから私は、もう長いこと「本当の意味で自分を喜ばせることができるのは、世界の中で自分だけだ…」という思いの中にいる。

そして、いろいろなことを考えながら書いているうちに自分自身が変わっていく、書き始めたときには思ってもいなかったことに気づく、という経験を何度かしています。編集長の言葉です。

ある種の文章の書き方をするとき、<自分>は変容する。その書き方のことを、私は執筆と呼びたい。

「文章を書くこと」は、幾多の趣味と違って、どこか特定の場所でしかできないことではない。特殊な道具も必要ない。最低限の時間と、空間と、道具さえあれば、たいていできる。自分を変えることさえできる。こんないいことはない、と考えたから、このブログも続いているような気がします。

一方で、ある時点からこのブログは2週間に1回書く、と決めています。スタート当初は勢いに任せて毎日書いてましたが、やはり周辺の環境を考えるといろいろ無理があり、だんだん間隔が長くなっていきました。それでも、自分にとって適度に続けられる頻度が2週間に1回である、と気づいた時、逆に絶対これ以上は延ばさない、と決めました。

私は自分のプライベートの予定を立てる時、まず抑えるのが、このブログの新しい記事を書き始める日程なのです。やりたいことや、やるべきことがどれだけあったとしても、これだけはちゃんとやる。そして、このブログを律することで、なんとか自分を、自分のプライベートを律することができているような気がします。

で、動機がこの二つだけなら、日記でいいではないか?という話かもしれません。ではなぜ全世界に向けて文章を公開するのか?それが、3つ目の動機

書くきっかけを与えてくれた人への感謝の意を表すため

このブログは、私の妻や友人等には一切その存在を知らせずに書いています。それは第1の動機に関連するのですが、妻や友人等に知られるリスクを冒してでも、日記ではなくブログにした理由は、この3つ目の動機があるからです。

書くきっかけを与えてくれた人、つまり自分を解き放つきっかけを与えてくれた人に「ありがとう」と言いたい。それだけなんです。うまくいけば、本人とやりとりができるかもしれない、という想いもあり、実際それはかなり初期の段階で達成されてはいるのですが、それは直接な動機ではなく結果であって、書いて公開した時点で、もう動機はほぼ達成されているのです。

そして、感謝の種を少しづつ植えることが、自分を解き放ち、自分を律することにもつながっているのかもしれません。

この項、続きます。

立ち止まり、省みる(2)

前回の続きです

マジメすぎて、苦しい人たち―私も、適応障害かもしれない…
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先日、妻にこう言われました。
今の生活は、達成感を実感しにくい。だからストレスがたまる。
結構重い一言でした。

妻は、専業主婦です。「あなたは仕事をしているから、達成感や自己実現を味わうことができるけど、私にはこれがない。仕事に戻りたいのは山々だけど、こんな体調で、こんな環境で戻れるわけがない」妻は、こう言います。たしかに、そんな大きなことをしているわけではありませんが、今の仕事に達成感がないといえば嘘になります。

一方、家事育児には明確な「ゴール」というものが存在しない(大学に入れること自体が育児の目的か?と言われるとちょっと違う気もします)ので、達成感や自己実現を感じずらい。これもわかります。私自身も何か徒労感を感じていたのは、この辺りに関係するのかもしれません。

こういった場合、どうすればいいのか?満たされない感の対象は「当面の暮らし全体」のような気がします。だとしたら、そのスコープを細分化するか、あるいは思いっきり俯瞰するか、ということが考えられます。前者は、よく言われる「タスクの細分化」です。細かいタスクの成功を通して、小さな達成感を積み重ねる。では、後者は?

私はいつも患者さんに「人生はマラソンだ」ということを言っています。観客に声援を送られ、激励されたからといってスピードを上げ、途中で脱落してしまうよりは、マイペースで最後まで完走できる方がいい。

そう、人生全体。最後にどうなるか、という視点。これは日々の生活に追われている多くの人々(もちろん私を含む)にとってなかなか持ちにくい視点です。でも、とても大切です。

もう一つは、自分のペースを忘れないこと。今回の大ピンチの要因は、まさに私が自分のペースを忘れて変なところでダッシュしてしまったことにほかなりません。

しかし、今回ひどい目にあったことは、悪いことではない。今までやってきたことがオーバーペースだということが、明確に認識できたから。

適応障害になったということは、努力や忍耐、社会的適応だけではない、ほかの価値に気づいて生きていくためのターニングポイントが訪れたということかもしれません。
「新しい自分、新しい生き方を見つけるチャンスになった」と考えれば、適応障害を起こしたことは、むしろ今後の人生にとってのプラスポイントになっていきます。

この視点は、こういう心境になって初めて実感しました。やはり、ターニングポイントだったのでしょう。いきなり何かが変わるわけではない。しかし、視野が変わることはこの先とてもジワジワ効いてくるような気がします。

立ち止まり、省みる(1)

自分を省みて、これはまずい、と思いました。
その時、妻の本棚にあったこの本が、ふと目に止まりました。

マジメすぎて、苦しい人たち―私も、適応障害かもしれない…
松崎 博光
WAVE出版
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この本には「適応障害」の具体的な症状の説明、治療法、そして適応障害にかかりにくくするための対処法といったことが書かれています。私は、この本の定義によれば、まだ適応障害ではありませんが、一歩手前の状態。そこで、この本に書かれている「対処法」の部分がとても参考になりました。

ところで、前回のエントリーで「決断した」と書きましたが、まずは、自分に関する「やりたいこと」を削減しました。感覚的にですが、今回はかなりバッサリ切りました。効果が現れるのはこれからであり、いきなり何かが劇的に変わったわけではありませんが。

自分の「やりたいこと」の見直しは以前にもやったことがあります。ただ、今回初めてやったのは、同時に妻にも「やりたいこと」を減らすよう要請したことです。

妻はADHDの傾向があり(正式な医師の診断は受けていませんが)放っておくとすぐに「やりたいこと」を増やす傾向にあります。それが自分で全部できればいいのですが、たいていできないため、それが家事育児の「やるべきこと」に影響する。そして、それをフォローする私の精神が崩壊し始めたのです。すでに妻がなっていると思われる適応障害に、私自身もなってしまいかねない、と気づきました。

平日でも仕事と家事育児に全力投球している私が、いくら子供がいるからといって、土日に全く休めないのは、どう考えてもおかしい。いろいろなことを根本的に変える必要がありました。具体的な「リスト」だけでなく、考え方を、フレームワークそのものを変える必要がありました。そのためのキーワードが、この本に書いてありました。

適応障害を克服するには、それを起こす環境に適応しないことが一番です。「適応障害にならないためにはどうしたらいいですか?」「無理に適応しないことです」こんな禅問答のようなことが問題を解決する有効策です。

私の場合、これ以上無理に適応しない、ということは、妻に対して「ごめん、これ以上(のサポート)は無理」と宣言することを意味しました。これは正直きつい。妻のtodoを増やす可能性をはらんでいるからです。でも言わなければなりませんでした。これをしないと、私のサポートが急にゼロになって、明確に妻への負担が増えてしまいます。

もう一つ、キーワードというより、反省すべきことがありました。それは、私が「自立」の意味を完全に取り違えていたこと。

自立というのは、誰にも何にも寄りかからず、ということではなく、寄りかかったり寄りかかられたりしながら自分の足で立って考え、動けることを言いますが、自立した生活こそがストレス弾を防ぐ盾になってくれます。

そうでした。私は明らかに適応障害にハマっている妻に寄りかかることは、よくないことだ、と思っていました。私がマジメすぎるのかどうかは、正直よくわかりません。ただ、明らかにマジメになるべき方向性が間違っていたのかもしれません。

この項、続きます。

我に返ること、我に帰ること

この夏に、一つの大きな決断を下しました。

前回のエントリ時では、個人的にいろいろ苦しい状況下にありました。というより、長い期間少しづつ積み重なってきたストレスの大きさに気づいてハッと我に返り「これは大変だ!」とある日突然実感した、といった方がいいかもしれません。

思えば、いろいろ抱え込んでいました。家族のこと、コミュニティのこと、仕事のこと。仕事のことは以前から意識して抱え込みすぎないようにしていたのでいいのですが、特に家族のことを抱え込む負担が増大していた、と今にして思います。

ただ「適正量」がわからなかった。これは3つの意味があります。

1、自分にとって深刻な負担にならない量
2、家族に深刻な負担が発生しないように、自分が抱え込む量
3、世間的に見て「これぐらいはやらんといかんでしょう」と思われる量

3、はおそらくクリアしていると思います(確たる自信はないのですが)。問題は1、と2、のかねあいです。妻の適応障害をフォローすべく2、のレベルを高く見積もっていました。すると、いつの間にか1、を超えていたのです。

また、家族の動きと某コミュニティの動きが密接に関わっているという特殊な事情もあり、コミュニティを含む多方面に向けて「もういい加減にしてくれ」と叫ばざるをえない状況になってしまいました。

いい加減にしてくれ、はわかった。じゃあ、これからどうするんだ?と思ったときに、このブログが、後押ししてくれました。

〈混ぜるな危険〉R-Style

これは、決定論・運命論でもなく、かといって自己が世界を支配するという話でもありません。どちらかと言えば、その領域を〈行ったり来たり〉するものなのでしょう。
自分のリストを作ること。それはつまり、他人のリストを混ぜないことです。
自分の人生を生きていくために、これ以上必要なことはないでしょう。

上記の1、と2、の間でtodoが混ざる。しかし、1、の限界を超えると自分が崩壊し、いきなり2、がゼロになる。これが家族にとっていいはずがありません。だから改めて自分のリストの確立すること、つまり「我に帰る」ことが必要だ、と感じました。

妻がよく言います。体調がきついから、代わりにやってくれ。これは、今までの私にとってほとんど「命令」でした。自分自身の体調や気分に関係なく、無条件かつ最優先に行うべきものでした。妻がどう思っていたかわかりませんが、結果としてそうなっていた。

しかし、申し訳ないけど、今後はもう無条件かつ最優先ではない。妻の負担を増やさず、私の負担も(大きくは)増やさず、かつ家がなんとか回る方策が最優先である。そのために、家のルールを変え、私の「リスト」を変える決断を下しました。

まずは自分のリストを整えること。これがシンプルに自分の人生を生きていく第一歩かもしれません。

混ぜるな危険、止まるな危険

正直申し上げて、今はタスク管理ができる精神状態にないのですが、

タスク管理の用語集: BizArts 2nd
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そうなる前に、この本を読みました。

最近、とある理由により、精神的にとても不安定です。すごく簡単にいえば、心が折れた状態。なにもかも放り出してエスケープしたい状態。当然、こういうときは、頭の中はぐちゃぐちゃです。だから、正直タスク管理はやりたくないので、最低限のルーチンだけを回しています。

ただ、とにかく落ち着きたい、と思ったので、第2章の「リストの性質」だけを読み返していました。これはまさに頭の中を落ち着かせるための切り口をいろいろ書いてあるところだからです。そこにある重要な一説。

「今からすること」リストに思いついたことをどんどん追加してしまうと、それは「今からすること」リストではなく、「やるべきこと」リストなってしまいます。リストが変質してしまうのです。リストを切り分ける行為には、それを防ぐ意義があります。ここでも<混ぜるな危険>の原則が生きています。

そう、混ぜるな危険。
頭が落ち着いているときでさえ、ありがちなリストの混乱と変質。でも、こんな最悪の時の方が混ざらないのかもしれません。「早く食べて、寝よう!」という究極のクローズドリストです。あとは布団かぶってエスケープ。頭のなかで行きたいところリストをどんどん追加していく。まさにオープンリスト。といっても、メモをする精神状態にはないのですが。

ところで、「1日3回特定の薬を飲む」という行為は、間違いなく「やるべきこと」です。これをしないと場合によってはQOLの低下に直結します。

一方、それとは別に「頓服薬」があります。たとえば頭が痛くなったら飲む薬、と説明されます。ただし、痛ければ飲めばいい、とも限りません。私も妻も処方されている偏頭痛の薬(レルパックス)はひと月に10錠までしか処方できない、と医者に言われています。考えて使わないといけない。

こんな感じで「やるべきこと」と「やるべきでないこと」と「やりたいこと」が拮抗することが、ままあります。これは混ざる。絶対混ざる。正解はありません。でも、とにかく決めないといけない。あるだけの判断力とリソースと運に頼るしかない。しいて一つだけあげるとすれば、なんらかの優先順位でしょうか。ミッションステートメントのような高尚なものではない、本能的な思いつき。その根底に、頭の中の「リスト」があるように思います。

確かに頭の中が混乱するのは危険なのですが、現状のまま、足がすくんで判断しないことは、もっと危険なような気がします。こんな精神状態で「走り続けろ」というのは酷です。でも「止まるな」ということなら、できるかもしれません。

休養という名のタスク

夏休み。
子供たちの世話が一層大変になるこの時期に、逆に「休もう」という話で恐縮ですが…

残念な人類のためのタスク・スケジュール管理術:発達障害就労日誌

先日twitterで取り上げた方のブログです。この方自身がADHDで、読者もADHDの方を想定されたものですが、ADHDに向き合う人、私を含めADHDの方のタスク構築に向き合う人にとっても、非常に参考になります。このエントリで最も強調しているのは、

まっさらの手帳、あるいはインストールしたばかりのアプリに最初に記入するべきは、「最も重要で」「最も実行の容易な」タスクなんですよ。これを軸にして予定を立てるべきなんです。はい、具体的にそのタスクとは何か。休養です。何もしないというタスクです。

私もよく妻に言います。まず、あなたが休む日を取って、と。ところが妻はこれを実行しません。それには、いくつか理由が考えられます。

まず、妻が専業主婦であり、働いている私よりも時間の自由がきく、ということ。これは普通の専業主婦ならその通りですが、妻は普通の専業主婦ではありません。すぐに頭の中が混乱し、子供達を学校に行かせるタスクを終えた時点でかなりの気力体力を消耗し、かつ最低週1回はなんらかの通院が必要です。あっという間に時間が過ぎる。一見平日は容易に「休養」が取れそうなのに、結果的にできない。そして、常に子供がいる休日は言わずもがな。

もう一つは「私よりもあなたの方が大変だから先に(休みを)取って」。日本人の美徳、「譲り合い」の精神です。あの東日本大震災で被災された方が「もっと大変な方がおられる」と静かにおっしゃっていた光景を何度も目にしました。これはこれで(エゴ丸出しよりも)とても素晴らしいことなのですが、これが過ぎると、逆に「物事が進まない」という弊害が発生しかねません。そこで、そう言われたら、私は遠慮なく休むことにしています。でないと、妻が休まないからです。

人間は休日が大好きなくせに、いざスケジューリングをする段になるとそれを一番おろそかにします。しかし、このガンガンスマホが鳴りメールが届きラインがピンピンいう時代に、「休養を取る」というのは立派なタスクです。そこには明文化された意思の力が必要です。

そう、意志の力。「休養」というタスクは、実行は容易なのに、設定はとても困難です。特にやりたいことがいっぱいあるのに、そのやりたいことを押しのけて空白の時間を設定するということは、ADHDでなくても、実はとても勇気がいることなのでしょう。

そういう私も「休養」は滅多に取れません。家は休息の場所ではなく、常に家事育児に追われる「戦場」です。子供に対して、あれやれこれやれ、と言っている一方で、こちらが何もしないと「何サボってるの?」と言われかねない。だから子持ちの親御さんはなおのこと「休養」が取りづらい。これは本当に実感しています。

ただ「休養」というタスクは、「できるときにやっておかないと、いつまでたってもできない」という感覚に対する抵抗ではない。むしろ逆で、「休養」を意図的に設定することで実行可能な時間が制限され、本当にやりたいことが無意識にしろ選別される。

「子供に対してできる限りのことをしてあげたい」という思考に対する裏切りでなく、最終的には家族全員の心の平静という最も高い価値を産むもの。「休養」というタスクは、「サボる」というネガティブな感覚とは逆に、Quality of Lifeを高める近道の一つなのかもしれません。

どこまで削るか、どこまで言うか

私がワークライフバランスをなんとか維持してこれた理由が、これを読んでなんとなくわかってきました。

私はこれまで多くの上司に仕えましたが、このようなまともに「阻害する」タイプには会わなかったような気がします。職種によるところも大きいのですが、一つの大きな理由は、最初から自分の仕事を「制限」し、それを明確に宣言したからかもしれません。

ただ、問題は二つあります。どこまで制限し、どのように宣言するか、です。

私がワークライフバランスを維持できたのは、一つには単純に仕事の分量を減らしたからですが、なんでも減らせばいい、というものでもない。

自分が生活するための最低限のライン、そこまでなら減らせるし減給も受け入れられるライン。そこを探るには案外難しいような気がします。それこそ微妙な「バランス」が必要です。これが今のところたまたま上手くいったから、今の生活が成り立っている。仕事を増やすのは簡単です。なんでも言われたことを引き受ければいいのですが、減らすのは難しい。単にやめればいい、という問題ではない。

私の勤めている会社では、年度初めに各人の「目標」が設定されます。これは上司が勝手に決めるのではなく、まず自分が書いて、上司と相談の上で決めることになっています。ここで、ある大枠が決められる。これ以上のことはやらなくていい。もちろん諸事情で「これ以上のこと」をやる可能性はあるのですが、まず年度始めにベースラインを設定しておくことは、とても大切なことだと思います。

もう一つは、これを「明確に宣言」すること。これも言えばいいという問題ではありません。労働者の権利として、やった分にはお金をもらう。やらない分にはもらえない。その原則に従っていればやらない理由はなんだっていい。というのは、言い過ぎかもしれません。単に遊びたいから仕事を減らしてください、では論理的にはともかく、感情的には受け入れがたい。

さらには、話を聞く側の人(つまり管理者側)が「戦線拡大」つまり成長するのが当たり前というマインドだと仕事を減らすことを単純に理解できない、という反応も考えられます。しかし、そういう人も今後は減るかもしれません。というのも、幸か不幸か、話を聞く方も親の介護とかなんとかで「戦線変化」の問題は身近に感じているはずです。私の場合のように、妻が病弱で家を回すのが大変なんです、というと、これは人生における「戦線変化」です。仕事の面では縮小だが、家庭の面では拡大している。しかもその拡大/縮小の状況は常に変化している。ここにも「バランス」が存在する。

それでもとにかく、まずは言わないことには始まらない。理由は一通り整えた上で、シンプルに、できないんです、と。それこそが強者の論理と臆病者の論理を越える第一歩かもしれません。