「余裕」がわからない社会、「違い」がわからない社会(2)

前回の続きですが、単にこういう社会はダメだ!という批判しているわけではありません。そもそも自分自身も今の社会を作り上げた一人ですから、反省の意味も込めて書いています。

ところで、前回

「誰それができたのだから誰でもできるはず」と思う人が多い社会

と申し上げました。これは「あなたは、私とは違う」、つまり「違い」の認識ができにくい社会である、とも言えます。「違い」の認識ができにくい、というのは、一つには日本がほぼ単一民族だから、というのもあるのでしょうが、それよりも、ただ単に「違い」を受け入れることのできる「余裕」がないからではないか、と思っています。

また、こんな社会になってしまったのは、社会を構成する人の大半が「余裕」のある社会そのものを経験していないのも原因のひとつではないか、と思っています。戦後の混乱、高度成長期、そしてバブル。「右肩あがり」ではあるが、しんどいのが当たり前と思っている。しんどくないのは罪とさえ思っている、とは言い過ぎでしょうか。もちろん、すべての責任を、そういうことを経験してきた年長者に押し付けるわけではありません。

そう、追い詰めないこと。単に余裕がないだけなら、わざわざ追い詰める必要がない。そんなことする時間があるなら、休んで気力体力の回復に当てればいいのに、わざわざやってしまう。これは「違い」に対する本能的な拒否反応から来ているような気がします。

自分とは異質のものなり人なりがいきなり目の前に現れると、本能的に防御の姿勢を取る。これはしょうがない。逆に言えば、異質のものに対する「慣れ」があれば、そうはならない。で、この「慣れ」は誰かから与えられるものではなく、自分で獲得しなければならない。もちろん幼少時には親がその環境を整えてあげた方がいいでしょうけど、ある程度歳をとれば、そうもいかない。「慣れ」は統一的な規格ではなく、個々人が持つ距離感のようなものだからです。

一方で、「慣れ」の獲得は相互作用ですから、「異質」側の行為も問われる。攻撃されれば怖い、という気持ちはもちろんわかるのですが、ひたすら隠すだけでは「慣れ」てもらえるわけがない。その意味で、今回のNスペのような、発達障害の当事者側からの積極的な発信は必要であり、とても勇気のある行動だと思います。こんな番組普通の人はわざわざ見ないよ、という声も多々あるようですが、それでも地道に繰り返すことでしか「慣れ」は獲得できない。

異質であることを、隠すのではなくさらけ出し、ある種当たり前として認知できる社会。それは、特にこの日本では、誰でもメディアになれる時代だからこそ近づいているのかもしれません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です