とにかく書こう、楽しく書こう

そろそろ動揺している場合ではなく、平常運転にもどさないと‥

さて、突然ですが、先日から「とにかく思いついたことをなんでも記録してみよう」ということを始めています。

そのきっかけは、私の妻がやっている「頭痛ダイアリー」です。偏頭痛に悩まされている妻が脳外科医の指示で始めました。日本頭痛学会公認のフォーマットはここからダウンロードできます。ひと月1枚になっていて、私が見たのは先月と今月分だけなのですが、それだけても結構バカにならない情報量です。
前々から「変わらなきゃ」と言っている私自身が足元の変化をちゃんと認識してないなぁ、と反省し、久しぶりにこの本を読み返しました。具体的なソフトの中身はすっ飛ばし、まずは「なんでも記録すること」の意義を再確認するために。

たった一度の人生を記録しなさい 自分を整理・再発見するライフログ入門

で、ごりゅうごさんがおっしゃっているのは、「とにかく書こう、楽しく書こう」

楽しいという感情は非常に重要です。何事も面倒だったら続きませんが、記録する行為自体を楽しめれば、きっと長続きできます。

そうだよなぁ、と思いました。まさにsimple and bright(ちょっとこじつけてます)。記録する行為自体を楽しめるような仕組みをつくることはとても重要なのかもしれません。その意味では手段の設定はとても大事だと思います。

当然人によって最適解は全く変わってくるのですが、私はEvernoteに(別アプリをかますことなく)直接書いてます。1回1ノート。一番シンプルなやり方で。
普段は家と会社の単純往復なので、位置情報はつけなくていいかと思ったのですが、つけてみると、意外に楽しい。foursquareなんて何が楽しいんだろう?と思ってた私が間違ってました。

実はこれとは別に以前から簡単な日記を(あえて)手書きでつけているのですが、下世話な話、○○のバカヤロー!なんて、私は日記やTwitterには怖くて書けない。でも、ここなら書ける。で、翌日見返すと「こんなこと書いてるわ。アハハ」と笑い飛ばしたりできる。

書き出すことに意味があるのです。
書き出すことで、なぜか「嫌なこと」は忘れられていきます。
嫌なことを忘れるというよりはイライラ、不安などの不快な感情が整理され、気持ちが落ち着く、と言った方がいいのかもしれません。

ということを実感しました。実は、このことは不安障害の治療法のひとつである「認知行動療法」にもつながるのでは?となんとなく思っているのですが、これから勉強します。

終点でもあり、起点でもある

いやぁ、びっくりしました。本当にありがとうございます。
こんな超弱小ブログにリツイートをいただいて、なかんずく記事がひとつ生まれたのですから、なんとかしてお返しをするのが礼儀というものです。

R-style » ブログ、隠れ家、書斎

私は『ブログを10年続けて、僕が考えたこと』の中で、「隠れ家ブログ」という概念を提出しました。
で、上の記事で紹介されているいしたにまさきさんの『あたらしい書斎』では、ブログをウェブ書斎(開かれた書斎)の一つとして位置づけられています。
でもって、書斎=男の隠れ家という補助線から、それって同義ですよね、という視点が上の記事では提出されています。
思いつきすら、しませんでした。

前回のブログでピンとこない、と申し上げた理由のひとつは、この「開かれた書斎」という概念でした。「籠もる」書斎に「開かれた」というイメージが、どうもかみ合わない。
それに、昔、メディアが本が雑誌しかなかったころでも、考えたことを書くだけでなく、その意見を手紙が何かで著者に伝える手段は一応あったわけです。だから、今も昔もある意味「開かれ」てはいたのではないか。なのに、なぜ? 

まず、違うのは、スピードと広がりでした。ブログがある。Twitterがある。すると、著者へのフィードバックが格段に早い。ブログ界の片隅で私がポストした意見がR-Styleを通して多くの方の目に触れるまで、わずか1日。
さらに、メールでも手紙よりは伝達速度は早いだろうけど、どちらもベースは「1対1」。相手の目に触れなければ、それでおしまい。今回のようなやりとりができたのは、リーチの懐が広くて深いブログならではなのでしょう。だから議論の広がりも深さも、変わってくるんですね。

そして、ブログについて、私は考えて書くところまでしか思いが至っておらず、その後のことは正直過小評価してました。

ブログというシステムが登場する前にはこの社会には存在していなかった、そしてブログ以降に誕生したメディアのスタイルとは何か、という問いかけです。
その答えは、__特にこの日本においては__個人が議論の起点となる場所を持つ、ということでしょう。それは、誰か著名人を引用しなくても、「すげーこと」だと言えそうです。

まあ、なんとなくそうかもね、とは思ってました。でもそれは、(すごく有名ではなくても)多少の知名度がある芸人やら政治家やら作家やらに言える話であって、わずかひと月半前に読者ゼロから「隠れ家ブログ」を始めた自分にとってはさすがに関係ない話だろうと思ってました。
でも、今回その現場を目の前で見せつけられた以上、そうも言ってはいられない。ブログは議論の(とりあえずの)終点であり、起点でもある。正直終点のことしか考えていなかったけれど、隠れ家ブログといえども起点になりうるんですね。開かれた書斎、おそるべし。

これからも、こういう楽しい機会があるかもしれませんが、起点でもあることをわきまえ、おごることなく精進したいと思います。

隠れ家としてのブログ、書斎としてのブログ

昨日の話の続き。あるいは、ひと月ブログを続けた「後に」私が気づいたこと。

ブログを10年続けて、僕が考えたこと

ご本人のブログに「毒素を2割ぐらい削りました」とあるので、ということは毒気が残っているんだな?と思って警戒して読んだのですが、全然違和感がない。なんでだろう?私のブログに対する考えが異端なのか?と思っていたら、後になってハマるキーワードが見つかりました。

「隠れ家ブログ」

そう。私は、これをやりたかったのだ、と思いました。これには著者が言うような「メーンストリートから外れたブログ」という意味とは別の意味を考えました。

ひとつは、私の家族も友人も知らない場所である、ということ。
このブログは、当初の主題のひとつにADHDを設定したこともあり、私の家族にも友人にも知らせずにスタートしました。つまり、もう一つの安全地帯を作りたかったのです。そのうち妻や友人たちが「simple and brightっていうヘンなブログがあってさぁ」と私に言ってきたら、それはそれで痛快かも。いつの話になるかわかりませんが。

もう一つは、これは「書斎」なんだ、ということ。書斎は、男の隠れ家。

あたらしい書斎

かなり以前にこの本を読んでいました。ここには実物の書斎の紹介がいろいろ出てくるのですが、最後の方にブログを書斎のひとつと捉える考え方が提示されます。正直言って、ずっとピンときていませんでした。
ところが、最近になって、よせばいいのにわざわざレンタルサーバー借りて、専用ドメインまで作ってブログ始めて、ない知恵絞って考えて「書いて」って、やってることはまさに「書斎」ではないか。これは実際にこうやってブログを始めてみないとわからないことでした。

単に本が並んでいる場所ではなく、いろいろ読んで、考えて、書く場所。それが、書斎。PV追求のような雑音から逃れて静かに考える場所。隠れ家にして安全地帯。そうだったんだ!書斎としてのブログを設定することは、PVを追わないと決意することとある意味同義だったんですね。

というわけで、これからも安心してPVを追わないブログを続けていきますので、よろしくお願い申し上げます(って、誰に言ってるんだ?)。

人生を変えるブログ、人生を変えないブログ

あるいは、ブログを1ケ月続ける前に私が考えていたこと。と、サブタイトルをつけてみたのは、この本を読んだのがきっかけです。

ブログを10年続けて、僕が考えたこと

この本の主題は、「ブログは人生を変えるのか?」
この本を読みながら、私自身の昔を思い出していました。

私は、90年代のパソコン通信を経験しています。それ以前からある趣味(今の妻と共有する趣味とは別)にハマっていた私は、ニフティーサーブ(@niftyより前)に参加していました。「フォーラム」という一種のコミュニティーの一員として、多くの方と知り合いになりました。

ところがその後、インターネットが押し寄せたのをきっかけに、このコミュニティーは四分五裂してしまいます。その後も一部のメンバーとは今もつながりを持ち続けることができているのですが、その際、情報交換と近況報告の手段となったのは、まずメーリングリストとブログでした。ブログは非公開ではなかったものの、仲間内以外の人が読むことはほとんど想定していませんでした。

その後、手段はミクシィに移り、さらにFacebookに移って今も続いています。それはそれでありがたいのですが、仲間たちはこのとき(数年前に)ほぼ時期を同じくしてブログを捨てています。私も同様です。
つまり、いい悪いは別にして、そもそも人生を変えるためにブログを始めた訳ではないのです。セキュリティーやプライバシーがやかましく言われる今となっては、単なる近況報告目的でブログを使う人はあまりいないと思います。Twitterの方がよっぽどお手軽ですしね。

一方、最近になって私がブログを始めた理由は、人生を変えたかったからです。動機が全く異なります。先述の「趣味」についてこのブログで書くつもりは一切ありません。すでにこの手の情報提供元は「供給過多」ですし、それよりも書きたい理由ができたためです。

たしかに今はこれを読んでいる人はほとんどいないかもしれない(笑)。家庭の事情によりオフラインの機会を持つことが現状不可能ということもあり、ブログの利点の一つである「人とのつながり」という意味ではまだ正直ピンときていません。
でも、公開することを前提に「考えて」書いています。ある特定の話題を中心に「考える」ことで人生を変えたい。そのためにはブログは格好の手段だ、ということに気づいて書き始めました。

この頃、明日に続きます。

で、どうしたいですか?

妻が、先日心療内科を受診しました。

受診しようと決めた経緯を細かく話し、また過去のこともいろいろ聞かれたので詳しく答えた、と言います。その結果、先生はこうおっしゃったそうです。「たしかにあなたは軽度なADHDの可能性があり、ADHDの薬を処方することはできる。ただし、人によっては副作用(頭痛等)がある。で、どうしたいですか?」

で、どうしたいですか?

結局のところ、妻が特にこの半年一番悩まされたのは、頭痛が治まらないことでした。それに付随して持病の喘息がひどくなるとかいろいろあるけど、とにかく、頭痛なんだと。脳外科でもらっている薬ではおさまらないのだと。
で、その原因は、様々な要素から来るストレス。だとすると、対処方法は二つ。ストレスそのものを減らすこと。ストレスに耐えられる対処をすること。こう考えると、単に頭痛薬を飲めばいい、という話ではないことがわかります。

さて、ストレスを減らすことは大切だけど、後者に対応するためには?

実は妻はかなり以前に抗不安薬(ソラナックス)を飲んでいました。出産や授乳をきっかけに飲むのを止め、授乳が終わっても(その間に転居したので)処方する医者を見つけるのが大変といった理由で飲めなかった。実は、すぐ近くにいたのに。
というわけで、あっさり抗不安薬を処方してもらいました。もちろんこれですべて解決とはなりません。頭痛はおさまってません。前よりはましにはなりましたが。

目の前のいろいろな変化に追いまくられて、結局自分は何をしたいんだっけ?ということを忘れてしまうことは、私にもあります。いろいろ追われすぎて、根本原因の追求を忘れてしまう。あるいは、する気がなくなってしまう、ということが簡単に起こります。それを防ぐためには、あるいは大切なことを忘れないようにするためには、何が必要なのだろう?と考えています。

教育も、試行錯誤を恐れない

最近この本を読んでいます。参考になることがとても多いです。

「学力」の経済学

きっかけが、ダン・アリエリーの行動経済学、というのを見て期待したのですが、期待は裏切られませんでした。

突っ込み所が(いい意味で)いろいろあるのですが、やはり最初に感じたのが、「教育とデータ」の問題。教育に関して、客観的議論ができるだけのデータがそもそもない。なので、役人や声のデカい評論家の意見が「常識」となってしまう。

このベースには「データで教育は語れない(あるいは語ってはいけない)」という固定観念があるような気がします。うまく表現できないけど、個性的な教育とか、偏差値の弊害みたいなのが変な形で染み付いているような。
もうひとつは、教育の聖域視、絶対視。教育を実験材料に使うなんてもってのほか、と思ってしまうのではないか。これって、おかしい。子供の教育こそ試行錯誤が必要だと思います。

たしかに「実験」目的で自分の意に添わないことをやらされたらそれはイヤだろうけど、それは実験手法で解決できる問題ではあるし(本にも具体的に書いてあります)、そうやって得られたデータは、少なくとも我が子の教育の指針にはなる。
もちろん、あくまでも指針であって、絶対的に従うものではない。子供の性格によってはデータと逆のことをやった方が効果的であるケースは当然あり得る。でも、それこそ、やってみないとわからない。

子供の教育に使える資源(お金や時間)は、有限です。有限だから、当然「効果的」に使いたい。特に中学生までは子供自身の判断力の問題もあり、親がかなりの決定権を握っているから、親が主導する試行錯誤も当然あり得ます。
実は、詳細は省きますが、4月以降の3ヵ月だけで我が家でも子供の教育に関して重要な変更をやっています。理由はいろいろですが、とにかく、変えることをおそれてはいけないと思っています。

そんなわけで、今日からうちの子供の生活パターンが変わっています。まだまだ子供たちの将来を見通せてはいないけれど、それこそ「明るい未来」への糧を少しずつつかんでくれたらいいな、と思います。