体は休めなくても、かえって気は安まる

今日で夏休みはおしまいですね。
小さい子供の面倒を見る親御さん、ほんとうにおつかれさまでした。明日以降もまた大変かもしれませんが。

「夏休み」は、小さい子供を持つ親御さんにとっては「夏休まらない」と言われます。学校がないから、朝からずっと子供の世話をしなければならないからです。

ところで、不安神経症持ちの妻は、夏は体調がいい。毎年7月から8月にかけては比較的突発的な体調悪化が少ないのです。「夏休めない」があるのに、これはなぜなんだろう?と思っていました。
以前は、夏休みは長期間実家に帰省するからだ、と思っていました。ところが、今年の夏は事情により帰省ができなかったのですが、それでも妻の体調はそんなに悪化しませんでした。

この夏、妻と話していて、思わぬ事実に気が付きました。夏休みは自分で全ての行動を決めなければいけない反面、実は不安定要素が比較的少なかったのです。

具体的には、子供の友達やママ友は多くが帰省や旅行に出ているので、その方面からの突発の用事が入らない。学校から帰ってきた子供たちが、いきなりこれから○○ちゃんと遊ぶから、と言って想定スケジュールがぶち壊しになるようなこともない。
私はこのような突発事項の発生は阻止できませんが、家族の「全ての行動を決める」という部分はサポートできる。そうかぁ、と思いました。

「休めない」といっても、やるべきことさえ決めてしまえば、突発行事に邪魔されないかぎり、体は休めなくても、かえって気は安まる。
特に不安神経症の人にとっては、ちょっとガチガチ目に計画を決めておいたほうが逆に不安が少なくなるのかもしれません。

私がひとりで子供二人の面倒を半日以上見るときには、たいてい外出するなりなんらかの行事を入れます。
その方が家にずっといるよりかえってストレスが少ないからなんですが、その考えがやっと理解できた、と最近妻が言ってました。

何らかの理由(例えば天候)で当初の計画が遂行できない際の「プランB」は用意しておく必要があるのですが、夏休みの場合は別の日の予定を丸ごと1日分入れ替える、というやりかたでほぼ切り抜けることができました。
もっとも、子供たちの体調不良だけは致し方ありません。そうならないように規則正しい生活をする、ぐらいしか自衛の手段は思いつきません。

不安神経症持ちに限らず、常に「コントロール感」を持つことがとても大切なことだと実感した夏休みでした。

みなさま、よい夏を。

少しずつ、休みなく

夏休みもあと数日。あっという間ですね。先日twitterのタイムラインで、こんなまとめが出ていました。

親御さん必見!有用すぎるタグ #宿題やろうぜ まとめ – Togetterまとめ 

親御さんにとって、こどもたちに宿題をさせることは、大きなミッション。我が家はまだ小学校低学年で宿題少なめということもあり、なんとか終わらせることができそうです(まだ終わってはいませんが)。

ところで、我が家では夏休みが始まる前に、家族内会議で夏休みの生活リズムをどうしようか、考えました。

その結果、シンプルに、夏休み前と同じ生活リズムにすればいいのではないか、という結論になりました。すなわち、

7時までに起きる
8時までに朝食を食べて着替える
8時半までに宿題をやる

この3つだけを朝のルールに設定しました。曜日に関係なく、毎日。3つのうち、前2つは学校のあるときのルールをほぼそのまま持ってきました。

宿題については、ポイントが3つありました。ひとつ目は、朝の準備が終わったら、すかさず宿題をやる。遊び疲れた夕方とかに宿題なんてできるわけがなく、宿題は朝イチでしかできんだろう、と考えました。

二つ目は、30分という時間設定です。
三つ目は、曜日に関係なく毎日やる、ということです。
宿題を最初の数日で一気にやってしまい、あとはやりたいことをする、というオプションも考えましたが、あえて「少しずつ、休みなく」やる作戦にしてみました。

結果的にはまあまあ成功だった、と思います。「少しずつ、休みなく」でうまく習慣づけができました。文字通り毎日できたわけではありませんが、泊まりがけの小旅行に行った際も宿泊先でドリルをやったのですから、たいしたものです。

どれが成功要因だったのかは、よくわかりません。
宿題をやっている際は妻か私が必ずそばについて見守っていたからかもしれません。「これらができたら、その後で30分好きなテレビを見ていい」という飴を用意していたからかもしれません。

実はこのルール設定は、正直に申し上げると、親の都合に合わせたものでした。

私はもちろん平日は毎日仕事に出ています。なので、子供が夏休みだろうが、生活リズムは変わらない。だとすれば、自分の生活リズムに影響を与えかねないストレスを少なくすればいい、というのが大元の発想でした。
「30分好きなテレビを見ていい」というルールは、子供はその間ロックインされるので貴重な朝の家事時間を捻出できる、というのが理由でした。

ただ「少しずつ、休みなく」というのは、大きなポイントかも、とは思っています。
子供は大人を見て成長し、大人も子供を見て成長するものかもしれません。

強制力を働かせない強制力

この本の感想の続きです。

21世紀の自由論: 「優しいリアリズム」の時代へ (佐々木俊尚)

二つ目のキーワードは、コミュニティ。
ご参考までに、私と妻で共有する、ある趣味のコミュニティのことを書きたいと思います。

このコミュニティは年会費制を取っています。年度ごとの更新規定も厳密です。なのでメンバーか否かは明確に区分されますが、参加形態はかなり自由です。ガンガン参加する人、全く参加しない人、私や妻のようにたまに参加するが顔を出すだけの人。ここにあまり明確な仕切りはありません。ただ、参加形態にかかわらず、会費の額は一律(ありていに言えばタダ同然)です。
また少なくとも私が入会したここ15年ほどで(主要メンバーが大きく入れ替わっているにも関わらず)こういったノリに変化はありません。それは、設立以来の不動の中心メンバーが、あまり強制力を働かせていないからかもしれません。強制力を働かせない強制力。

また、不動の中心メンバーの少なくともひとりは、上記佐々木さんの本で言うバリバリの「リベラル」ですが、個人の考えをこのコミュニティには持ち込みません。メンバーのなかにも「リベラル」的考えを持つ人が少なくなさそうで、このあたり、単純にマイノリティとしてのシンパシーがあるのかもしれません。
但しコミュニティの方針とは別です。個人的な思想として持つことは否定されていませんが、あまりにあまりの人は、排除されるか、自分で出て行きます。コミュニティとしてのなんらかの「共通善」が定義されて、コミュニティの中で定着しているからでしょう。

ADHD関連のwebつながりでも、似たような印象を受けています。固定度はないが、リーダーが不在、とも言い切れません。それなりにメンバーの数はあります。これがどのように成長するか、しないのか、を見ていくのは単純に興味としておもしろそうです。私もなんとなくメンバーのひとりではあります。しかもADHDそのものの当事者ではありません。

政治の世界は基本多数決なのでマイノリティーを排除する方向にいきがちです。なので、マイノリティーは反感を持って反権力になるのは、ある意味自然なような気もします。でも、反権力の示威行動だけではサイレントマジョリティーは動かせません。それ以上の何かが必要です。
そもそも「サイレントマジョリティーを動かす」こと自体が必要かどうか、という話もあるのですが(「隠れ家」というキーワードもあったりして)、ネットに、コミュニティに、何が出来るか? 当時者的にも、観察者的にも、この話はとても興味があります。

マイノリティーの中の人、向き合う人

この本を読みましたが、難しかった。自分の中で消化するのに、時間がかかりました。

21世紀の自由論: 「優しいリアリズム」の時代へ (佐々木俊尚)

で、自分に関係しそうな二つのキーワードをなんとか見つけました。一つ目は、マイノリティ。

例えば日本国民全体対して、ある条件を当てはめたときに、必ず「マイノリティー」が設定されます。で、そのマイノリティーに対して、このような3分類を思いつきました。

中の人
向き合う人
無関心の人

「中の人」は、文字通り該当する人。該当しないのに「中の人」になりたがる人もいますが。「向き合う人」とは、意図するしないとに関わらず、中の人に向き合う(あるいはそうせざるを得ない)立場の人を指します。単に非難するだけの人は「向き合う」とは言えないかな。無関心とは違うと思うけど。

例えば、私と妻は、小さい子供を持つ親という意味では「中の人」です。私はここではマイノリティーそのものです。妻の喜びは、私の喜びでもあります。

一方、私はADHD/神経症については「向き合う人」です。妻のADHD/神経症に対して否応なく向き合わければなりません。妻の課題は私の課題でもあるのですが、私自身はこの症状を持っているわけではないので基本的に「中の人」にはなり得ません。

で、この3分類は明確に区分があるわけではありませんが、「向き合う人」はあまり注目されてないのではないか、場合によっては「中の人」そのものよりもさらに少ないのではないかと思います。ここで、前回の記事とちょっとつながるのですが、結構孤独で大変なんです。向き合う立場は。

ただし、やむなくとは言え、このような立場を得たことはこれからの人生で貴重な体験です。冷静さを失ってしまうと簡単に「中の人」(佐々木さんの言うマイノリティー憑依)になってしまう。そこで冷静さを失うことなく、マイノリティーの立場を理解することは、とても大事なような気がします。そもそもADHDの人は(身体的特徴として)冷静さを持つことが難しい人ですからなおさらです。

私はADHD/神経症の立場の人を理解するために、本人のブログだったり、(妻ではなく)子供さんがADHDである親御さんのブログを拝読したりしています。まだまだ自分として確固たる意見を持っている訳ではありません。ただ、マイノリティーに向き合う人、という視点はブログ、というよりライフワーク的なネタになりそうな気がしています。

フロンティアは、広くて険しい

先日からカテゴリーの名前を少し変えました。「ADHD」を「ADHD/不安障害」に変更しています。変えた理由などは、また項を改めます。

さて、以前、大人のADHDを家族に持つ(非ADHDの)方のブログがない、といったことを申し上げました。本当にそうなのか?今頃ではありますが、ググってみました。
試しに「妻はADHD」というキーワードでググってみましょう。いやぁ、びっくりした。1ページ目に離婚問題を扱う弁護士サイトがヒットしました。配偶者のADHDは、即離婚問題に行っちゃうんですねえ。それほどクリティカルであるというのは、わからんでもないけど。
 
で、話を戻して、Q&Aのような掲示板は多数ヒットするのですが、ブログは少数。頭から10ページほど見てみましたが、1年以上継続して更新しているようなブログは見あたりませんでした。数ヶ月程度更新して止まってしまった(あるいは更新中)のブログがいくつか。開設間もない当ブログが7ページ目ぐらいに出てきました。

そうかあ、と思いました。大人のADHDはここ数年よく取り上げられるようになりました。でも、角度を変えればこのアイテムでさえまだまだニッチであり、開拓のしようがあるんだなあ、と。
そう考えると、ブログや個人メディアに残されたフロンティアって、まだまだあるのかもしれません。マスコミや普通の書籍ではカバーできないフロンティアが。 

もうひとつ感じたのは、ブログを続けるのは、やはり大変なことなのだ、ということ。

ネットで成功しているのは<やめない人たち>である

かなり前にこの本を読んでいました。ブログを書くことに興味がなかった時期でしたが、続けることの意義みたいなことを考えてみたかったのです。そこで出てきたことばが

「どうすれば、多くの人に見てもらえるブログにすることができるのでしょうか?」という質問をよくされます。正直なところ、そんなものに回答なんてないのですが、それでも確かに言えることが一つだけあります。それは「ブログをやめないこと」です。少なくとも3年ブログをやめないこと

でした。PVを追うつもりはなくても、自分にとってある程度の意味のある情報の厚みを持ったものにするには、確かにそれぐらいの期間はいるのかもしれない。3年か。私には絶対無理だ、と読んでて正直思いました。今でも出来る確信なんてないのですが、やってみなけりゃわからんじゃないか、ぐらいには思えるきっかけはつかめるようになりました。

私がADHD関連でどこまでできるかわかりませんが、少なくとも開設のきっかけにはなったアイテムである以上、もうちょっとは引っ張りたいと思います。離婚とかではなくて、brightな方向で。