「寂しさ」から脱却するための多様性(2)

「だって、ここではみんながおかしいのさ。ぼくも、きみもね」

実は前回紹介した本と、この本はほぼ同時に購入しました。あちらが電子書籍だったので先に読んだのですが、結果的にこの順番で正解だったかも。文化やコミュニティだけではないんじゃないか、となんとなく思っていた疑問を解く鍵は、イギリスにありました。

筆者が上げている「7つの理由」はそのまま章立てになっています。

・赤ちゃんも妊婦も、ストレスなく暮らせる
・お母さんらしく、妻らしく、なくていい
・食事作りがストレスフリー
・誰もが柔軟に働ける
・親子の絆をつくる
・子ども1人1人の可能性を引き出す
・多様性を許容し、創造性を育む

この中で特に紹介したいのが、第4章「誰もが柔軟に働ける」です。ここでは、たとえ専業主婦であっても子供を預ける罪悪感がイギリスにはない理由が書かれています。

まず、子供を預ける手段がいろいろあること。保育園はあるが、公的補助がないので日本に比べて格段に高い。ただしそれに代わるベビーシッター、あるいはナニーの仕組みが発達しており、質もコストもピンキリだが幾つかの選択肢があること。さらに親の方も柔軟に働ける環境があること。パートタイムはもちろん、短縮勤務、在宅勤務、ジョブ・シェアリング。しかも、従業員はこれらを雇用主に要求する権利があることが法律で保障されています。

こういうバックグラウンドがあると、どうなるか。10人いれば10通りの子育て対応が取れる。小さい子供を保育園に入れることができなければ働けない、という二者択一ではない。そして、こうなる。

この国では、みんながあまりにも違っている。考えも、価値観も、文化的背景も、経済状況も、ライフスタイルも。だから、それぞれの違いを熱心に批判しあってもキリがないのだ。法を犯していなければ、お互いの大いなる違いもしばしば黙認せざるをえない。

これは「ニワトリと卵」なのかもしれません。もともと人種的に多様性があったから制度を対応させたのか。その逆なのか。いずれにしろ、ベースはガッチリ決めるけど、そこから先はテキトーにやってね。全部が全部規定なんてできない。こんなに多様だと物理的に無理だから、という考え方が当たり前になり、変な罪悪感を生まない、という循環になっているような気がします。

そしてこの考え方は、公教育にも反映されています。それが最後の2章で書かれています。イギリスにも、日本の学習指導要領のようなものがありますが、日本のそれに比べると、悪く言えばかなりテキトー。検定教科書制度もありません。

一方で、教育の質をチェックする機関なりルールなりが厳格に存在し、その間を各学校の教師の創意工夫で埋めていく。これは1から10まで厳密に決められたルールに従うより、ある意味すごくきつい。でも楽しくもあるでしょうね。自分でレールを作るのは。

このエントリーの冒頭の一節は、イギリスの作家ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」の一節。今回紹介した本の冒頭にも書かれているのですが、不思議の国を、この世界を生き抜く知恵は、テキトーさ、あるいは創造性の中にあるのかもしれません。

「寂しさ」から脱却するための多様性(1)

いろいろと、考えさせられる本でした。

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きっかけとなったのは、この一節。

子育て中のお母さんが、昼間に、子供を保育所に預けて芝居や映画を見に行っても、後ろ指を指されない社会を作ること。
私は、この視点がいまの少子化対策に最も欠けている部分だと考える。

この前書きに惹かれて読み始めたのはいいものの、あとに続くのは演劇による地方創生の話ばかり。それはそれで面白いのだけれど、なぜ、あんな前書きを書いたのか?わかったのは終章を読んでからでした。

ただ、私が思うに、この本のポイントは、筆者が序章と終章のそれぞれで引用している、金子光晴の詩の一説にありました。

遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもつてきたんだ。
君達のせゐぢやない。僕のせゐでは勿論ない。みんな寂しさがなせるわざなんだ。

「寂しさ」が、戦争を、争い事を、望まぬ滅亡を呼んでくる。この寂しさを防ぐためにコミュニケーションやコミュニティが必要であり、そのために本物の文化が必要なんだ、と言いたかったように思えました。「寂しさ」は、ある意味ストレスと言い換えてもいいかもしれません。

違う価値観の人と交わって人生を豊かにするコミュニティ。これは核家族化が進み物理的な断片化が進んで、より困難になっていく気がします。そのつながりを強めるのは、地縁血縁ではなく、文化ではないか。これは今まで気づかなかった視点でした。

筆者はオフラインでのコミュニティを想定されているかと思いますが、オンラインではさらに難しい。自分に対立する意見の存在を認めること。実はこれはネットがあまねく行き渡ってから、情報過多と言いながら逆に困難になっているような気がしています。なにせGoogleやFacebookがある意味気を使いすぎて、自分にとって快適でない検索結果を隠してしまうのですから。

もちろんネットを否定するわけではありません。筆者が望むようなコミュニティを作るにあたって一定の役割は果たすでしょう。むしろこの本で取り上げている地方創生の話でネットが積極的役割を果たしているように思える場面も出てきます。

「寂しさ」から脱却するために、文化を通した多様性を身につけること。そのためにどのような教育をして、どのような(広い意味での)情報に接するべきか、これはとても難しいけれど、その先にこそ未来が待っているような気がします。

この項、続きます(が、次は別の本が出てきます)。