情報と家庭が交わるところ

「しかしそんなものは、どうせ全部保存しておくことはできない。あきらめることですな。」

情報の家政学 (中公文庫)
梅棹 忠夫
中央公論新社
売り上げランキング: 815,653

この本は、あの「知的生産の技術」の梅棹忠夫氏によるもの。情報論、家庭論、知的生産の技術論を組み合わせて発表した講演やインタビュー、論文などをまとめたものです。1988年に刊行され、2000年に文庫化。名前からして興味が湧いたので、珍しく中古の文庫本を取り寄せました。

こういう成り立ちの本なので、同じような論旨が複数回登場します。煩雑といえば煩雑ですが、インタビューでの表現と論文での表現が異なってくるから面白い。冒頭の一文は『婦人画報』1969年12月号に掲載されたインタビュー記事の一節ですが、とにかく痛快。「すてる」とか「もやす」という言葉がバンバン出てくる。今ならそう抵抗は感じられないかもしれませんが、50年も前に奥様方に向かってこれを言い切ったのはすごい。編集部には抗議の投書が殺到したんじゃないだろうか、と心配になるぐらいです。

考え方はとてもシンプルです。一言で言えば、モノや情報の新陳代謝の仕組みをあらかじめ作っておくこと。これがないから、家の中が破綻する。それだけです。この本には「京大式カード」自体は登場しませんが、その代わりに活躍するのが「フォルダー」です。これを大量に備えておいて、必要な書類を取り込んで50音順に配列し、いつでも取り出せるようにする。一方、すべての部屋に必ずゴミ箱を常備しておき、いつでも捨てることができる状態を保つ。これは”GTD”のデビッド・アレンと同じことを言っているような気がします。50年も前にです。

また、オフィスと家庭の最大の違いは、家庭は書類以外のモノがやたらと多い、ということ。しかも「思い出」にしたいから捨てられないものが多い。そこに対して筆者は「あきらめることですな」とあっさり言い切る、だけではありません。この一節の直後にこう言っています。

保存したかったら、写真にとってのこせばよい。

つまり、シンボル化を推奨しているわけです。彼はミニマリストではありません。収入の許す限りモノはバンバン買っていい、と言います。一方で物理的な限界がもちろんある。そこをつなぐのが「フォルダー」であり、ゴミ箱であり、写真によるシンボル化なのかもしれません。

そして、その「フォルダー」を集めて、「家庭における情報センター」が必要だ、と筆者は主張します。

家庭においても情報の出し入れが激しくなってくると、主婦のためのデスクが必要になってきます。電話とノート、ファイルのためのキャビネット、カード・ボックス、一時的なメモのための白板などを装備したコーナーが必要となのでしょう。

なぜ主婦のためのデスクが必要かというと、家庭の情報の入出力は主婦が握っているから、ということなのですが、この状況は時代の要請によって変わっているかもしれません。ただ家庭の情報の入出力を夫婦共同で行っているとしても、主婦のためのデスクは必要な気がします。主婦のためのパソコンだけではなく。

「いい加減」な親、いい「加減」な親

3月になりましたが、毎年冬から春先は妻の体調が一番きつい時期です。精神的な影響も大きく出ます。
といった状況で、このブログを読んで、いろいろ考えさせられました。

あなたは「正しい親」をイメージできますか:シロクマの屑籠

 子どもを一人で置き去りにする親は正しくない。
 子どもに体罰する親も正しくない。
 子どもの教育に無頓着な親も正しくない。
 不規則な生活や偏った食事に無頓着な親も正しくない。

私事で恐縮ですが、私は物心ついたころから片親で育ちました。毎日働いていて、かつ実家や親類とはほとんど接触がありませんでしたから、当然自分は一定時間放置されます。さすがにひとりで放置は危険と思ったのか、ほぼ毎日塾か習い事のようなことをやってました。なので、教育に無頓着ではありませんでしたが、生活や食事は不規則でした。見事に偏食でした。

で、うちは当時からなんとなく「正しい親」ではないとは思ってましたが、自分を育てるためにやむを得ないとも感じてましたし、多種多様な家庭環境をクラスメートとかから聞くなかで相対化し、「衣食住と、多少のおもちゃがあれば十分ありがたいのだ」と思っていたので、言ってみれば基準となるベースが低かったのです。

一方、私の妻の両親は、多くの方が「正しい親」だと認定してしかるべき方です。厳格な父親、家事万能な母親、当然親戚筋の付き合いは欠かすことなく、娘にはカッチリと門限が設定される。もちろんクラスメートから多様な家庭環境は聞いていたようですが、伝家の宝刀「ヨソはヨソ、ウチはウチ」であっさり説得されてしまい、自分にとっては自分の家が当たり前、と思ってしまったようです。

すると、どうなるか。「正しい親」である彼女の両親が無意識にもベースとなる。さらに彼女は軽度のADHDですから、彼女の母親のように家事や育児がキチンとできないことがままある。そこで「自分はダメな人だ」と思ってしまう。

ここで、問題点が二つあります。一つは基準のレベルをどこに置くか。低ければいいという問題ではありませんが、高すぎると、破綻します。
 
もう一つは、どの程度「幅」を持たせるか。いくら出来る人でも、調子の悪い時はあります。そこで一定の幅を許容しないと、これまた破綻します。ところが、頭の中が簡単にとっちらかるADHDのよう方は、この調整が難しい。極端な話、オンとオフしかできない。ずっとオンのままだと、当然破綻します。

私は破綻を回避すべく、半ば意図的に子供の前でオフ状態を見せるので、子供たちから「適当大魔神」という、わけのわからんあだ名をもらっていますが、悪く言えば「いい加減」です。

そんな私を、いい「加減」ができるからうらやましい、と妻は言ってくれますが、やりたくてもできない彼女の気持ちを察することしかできません。これは誰かに言われて急に出来るものではない。長い年月をかけてゆっくりと変わっていくものでしかないような気がします。気長に、待つしかない。

自己愛研究で名高いハインツ・コフートという精神科医は、「最適な両親とは“最適に失敗する”両親のことである」という言葉を残しているが、私もそのとおりだと思う。

これは至言だと思います。私が最適な親かどうかはわかりませんが、少なくとも、いついかなる時も「正しい親」であることを押し付けて、子どもを窒息させるようなことはしたくない、と考えています。

極言すれば「正しい親」なんて、この世に存在しません。存在しえないものを要求するのは、理不尽でしかない。存在すべきは最適な親なんだ、と思います。