「余裕」がわからない社会、「違い」がわからない社会(1)

先日のこの番組の影響で、私のTwitterのタイムラインが沸騰しました。

NHKスペシャル|発達障害 ~解明される未知の世界~

私のフォロー先(発達障害の当事者も少なからずいます)の評価は、概ね好意的に見えました。たしかに突っ込みどころはあるけど、まずはこういう番組がNHKスペシャルとして製作されて、不特定多数が見た、という事実だけでも大きな前進。私も、発達障害の当事者ではありませんが、同意見です。

そういった議論の一方で、いろいろ考えがタイムラインを流れていったのですが、その中で一番感銘を受けたのが、これでした。

これは、軽度のADHDである妻を毎日見ており、以前適応障害に関するエントリーを書いた私にとって、とても重要な指摘です。極言すれば、どれだけ脳機能に障害があっても、社会と折り合いをつけることができれば「生きづらさ」は感じず、あまり不幸にも思わない(そういうフリをしているだけ、であれば別)。

ところがADHDの程度が軽くても、ママ友との付き合いがきついとか、自分の頭の中がどうやってもまとまらなくて生活していくのに苦労する、という状況であれば、医師の正式な診断があろうがなかろうが、対処が必要な問題です。その生活は当然「社会」と密接に関係していて、社会とどう向き合うか、という問題に帰結します。

テクノロジーの発達等により人々が受け入れることのできる「総量」はたしかに以前より増えたけれど、社会が求める「総量」の増加は、それを上回っているような気がします。特に「誰それができたのだから誰でもできるはず」と思う人が多い社会では、これが顕著に出る。

自分たちで勝手にレベルを上げて、自分や他人の首を絞めにかかる。これはさすがにヤバい、と関係者一同が実感してやっと変わった典型例が、ヤマト運輸の昨今の対応だったような気がします。最低週に1回はヤマトさんや佐川さんのお世話になっている私にとっても、身近な、そして反省すべき事例でした。

社会の個々人が生活の質を上げようとして、社会に対して求める「総量」が大きくなると、シンプルに考えれば、社会の人口が増えない限り、逆に社会の構成員でもある個々人の余裕がなくなっていきます。そうすると、今までなんとか折り合いをつけることができた人がドロップアウトを余儀なくされる。これはどう考えても本末転倒です。

もちろん、質を下げて昔に戻れ、と言いたいのではありません。ただ、やはり色々な理由で、私たちは社会に対して何かを求め過ぎていたのだろう、という気がします。新たなテクノロジーが生まれて、それを試しに使ってみて、それを生活の質の向上の糧にするのはいいとしても、そこで達成された新たなレベルを、ありがたいものではなく「当然のもの」として認識された時、社会が少しずつおかしくなっていくような気がします。

この項、続きます。

死んじゃうさだめ、とのたたかい

金融危機がネタになれば、絵本もネタになりえます。

このあと どうしちゃおう
ヨシタケ シンスケ
ブロンズ新社
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私にとって著者の本は「りんごかもしれない」「ぼくのニセものをつくるには」に続いて3冊目。近くの本屋で平積みされていたのをうちの子供達が見つけて、買って買って、とせがまれました。この本は子供向けの絵本としては珍しく「死」に向き合ったもの。しかし、彼独特の文体はいい意味で重々しさを感じさせません。

本を開けると、いきなり「こないだ おじいさんが しんじゃった」という一文から始まります。ところが、その後、おじいさんが生前に残した『このあと どうしちゃおう』というノートが見つかって、それを読んだ主人公が「このまえ」、つまり自分が死ぬ前のことを合わせて考え始める、という筋書きです。

その『このあと どうしちゃおう』は、遺書ではありません。普通遺書というのは、この世に残された関係者に対してメッセージを残したりするものです。ところがこのノートには、自分が死んだらこのようにして生まれ変わりたいとか、こういうお墓や記念品を作ってほしいとか、つまり自分自身のことしか書いてない。まさにこれは、以前取り上げた「死すべき定め」の大きな主題のひとつである「一貫性」の問題です。

主題の重さのせいか、ブックレットが付録についており、著者へのインタビューが収録されています。そこに、こんな一文があります。

で、これは実感なのですが、人は死の間際になればなるほど、死について語れないんです。(略)父も母も健康で元気な時に、もっとカジュアルに死について話ができたらよかったな、と思ったんです。

これは重要な指摘であり、私自身の実感とも一致します。「死すべき定め」でも、自分が死ぬことについて自分自身が意識して、前もって周囲に話すことの重要性が指摘されています。そうすることで自分自身はもちろん、関係者一同のQuality of Lifeが逆に上がる。それは自分の「一貫性」を周囲に示すことで、それに寄り添った関係者の安心感や幸福感にもつながることだ、と思います。

そしてもうひとつ、こんな一文がありました。

「死んじゃいたい」と思いつめている子に、「死んではだめ」と言う前に、その子の視界がひらけるような、冗談なり小話なりといったものを大人がいかに持つか。

これは「死すべき定め」でも取り上げられていない指摘です。自殺願望を持つ人は、自分のやりたことができない、あるいは一貫性を保てないことがその大きな原因になっていることが多いと思いますが、そこをいかにやり過ごすか。特に一貫性を保ちにくい子供に対して、大人がどうやってサポートしてあげるか、ここは重要なポイントのような気がします。

実はこの本は昨年刊行されていますが、私が本屋で見かけたのは、最近のことです。季節的に子供達がいろいろと不安に思うことが多いこの時期に、本屋さんが仕掛けた、子供達へのささやかな応援だったのかもしれません。もちろん、私自身にとっても。

自尊心をくすぐるもの、自制心を崩すもの

この本が、このブログのネタになるとは、思ってもみませんでした。

ブーメラン 欧州から恐慌が返ってくる (文春文庫)
マイケル ルイス
文藝春秋 (2014-09-02)
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ほとんど気晴らしために手に取った前著「世紀の空売り」の読み応えがあったので、その続編にあたる本書を読んでみることにしました。主題はリーマンショックに続く欧州金融危機。

「世紀の空売り」は、どことなく語り口にエンターテイメント的な感じがする(だから映画にもなったのでしょう)のに対し、今作はかなり落ち着いた、というより若干沈鬱な印象を受けました。

私は、欧州金融危機とは、お金のことに真面目とはいえない、ギリシャを始めとする南欧諸国を、他の国がいやいやながら助けている、という構図だと思っていたのですが、その認識は大間違いである、と著者は指摘します。アイスランド、アイルランド、ギリシャ、そしてドイツ。それぞれの国、あるいは国民性にこの危機を招いた要素があり、それが国によって明らかに異なることを映し出します。

この本を読んで私が関心を持ったのは、国によって大きく異なる「自尊心」と「自制心」の持ち方でした。

自尊心は人間であれば必ずといってもいいほど持っていると思います。(Aならかなわないけど)Bなら誰にも負けない、という心。私は「スペシャル」である、という心。こういう心を持つこと自体は問題なく、ある意味必要でさえいえるのですが、(私を含め)大半の人がよくわからない金融の話で自尊心がくすぐられると、大変なことが起きる。まして、もともと人間が本能的に溜め込もうとする「お金」の話ですから、問題は複雑です。

お金のことで自制心を失う問題は、単純に「うまい話に気をつけろ」という問題だけではないような気がします。一つにはバブル当時のように、周囲のみんなが「うまい話」を信じた状態で自制心を保てるか?ということ。もう一つには、バブルでなくても、ネットには自尊心をくすぐり自制心を失わせる情報がいくらでもある、ということ。だからといって、情報を遮断すればいいという話ではなく、事実上不可能です。では、どうすればいいのか?

「自己規制を拒むのであれば、我々を規制してくれるのは、環境と、環境が我々の権利を剥奪していくその過程だけです」(略)言い換えれば、意味のある変化を起こすには、必要量の苦痛を我々に与えてくれる環境が欠かせないということになる。

本書で登場するある学者の指摘です。この指摘をリーマンショックを重ねあわせた時、自制心を失った先にあるものは、相当にきついハードランディングを連想してしまいます。

一方で、多くのイノベージョンはある意味自己規制を突き抜けた先にこそある。リーマンショックはCDSというとんでもない金融商品のイノベージョンによって生まれたわけですが、逆に人々の幸福に資するイノベージョンも同様です。

私たちがみんなすごいイノベージョンを発明する必要がないにしても、「必要量の苦痛」の経て得られる変化、そしていい意味での自尊心の進歩は、自制心の適度なコントロールの先にあるのかもしれません。