畑を耕すこと、花を楽しむこと

このブログの更新頻度を少し上げようと思いました。

Evernoteとアナログノートによる ハイブリッド発想術
技術評論社 (2017-05-29)
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そもそもこの本を買ったのは、ブログの更新頻度を上げることが目的ではありませんでした。これまでアナログの手帳でやっていた日記もどきを、とある理由でスマホによるEvernoteに移行して、自分のメモのデジタル/アナログ比率が変化し始めたちょうどそのときにタイムリーな題名の本が目に入ったからです。

で、読み始めて、ちょっと面食らいました。前書きに 

本書は「アイデアの教科書」を目指しました。 

と書いてあったからです。題名を見て、実際のツールに関わることが多く書いてあるだろうと勝手に想像していたのです。

そして著者はアイデアを「畑」にたとえ、種から芽が出て身を結ぶまでの一連の動きと、それを助けるための便利なツールを説明しています。つまり、アイデアが文章になって世に公表されるまでの過程を丹念に追うことが重要であって、ツールはそのサポートに過ぎない。ただし自分にあった適切なツールの使い方をすれば、大きなサポートになりうる、と主張します。

一方、私がこのブログでやっていたのはせいぜい「植木鉢」で、しかもツールは最小限。ただ、ブログとして文章を公表するまでに頭の中でやっていた作業は、この本に書いてあることの一部を実際にやっており、そのことが言語化されたこと自体が、まず私にとって大きな収穫でした。それだけでなく、ほかのやり方もあるよ、と言われたとき、あ、そうか。と思ったのです。植木鉢ができるなら、プランターぐらいのことはできるかもしれない。そう思えてきたのです。

そういう目線で、改めてこの本を読み直した時、あ、植物育てるって楽しいよね、と思いだしてきました。今まさに、うちの子供達がやっていることです。毎日水やりして、草引きして、いろいろ整えて、、、と考えた時に、自分の中で最も楽しいステップが、この「いろいろ整える」という段階でした。もっと具体的に言えば、エントリーのタイトルを考える時。

普通の植物は、種を植えた時点でどういう花が咲くかはだいたい決まっていますが、アイデアの場合、どういう花を咲かせるかは自分で決めることができる。そして、どういう花にするかによって、その後で成る「実り」にも影響する。とても重要な作業です。私の場合もあっさり決まることがあれば、最後の最後まで決まらないこともあります。筆者はこの本の中で「キークエスチョン」の重要性を指摘していますが、おそらくそれは「タイトル」の重要性に直結するような気がします。

いきなりこのブログを毎日更新にする気はありません。植木鉢をプランターに変えるにはそれなりに準備が必要です。さすがに気合だけではうまくいかない。このブログを始めてほぼ2年。無理のないペースでアイデアの畑を耕して、その面積を少しでも広げることができれば、と考えています。

「余裕」がわからない社会、「違い」がわからない社会(2)

前回の続きですが、単にこういう社会はダメだ!という批判しているわけではありません。そもそも自分自身も今の社会を作り上げた一人ですから、反省の意味も込めて書いています。

ところで、前回

「誰それができたのだから誰でもできるはず」と思う人が多い社会

と申し上げました。これは「あなたは、私とは違う」、つまり「違い」の認識ができにくい社会である、とも言えます。「違い」の認識ができにくい、というのは、一つには日本がほぼ単一民族だから、というのもあるのでしょうが、それよりも、ただ単に「違い」を受け入れることのできる「余裕」がないからではないか、と思っています。

また、こんな社会になってしまったのは、社会を構成する人の大半が「余裕」のある社会そのものを経験していないのも原因のひとつではないか、と思っています。戦後の混乱、高度成長期、そしてバブル。「右肩あがり」ではあるが、しんどいのが当たり前と思っている。しんどくないのは罪とさえ思っている、とは言い過ぎでしょうか。もちろん、すべての責任を、そういうことを経験してきた年長者に押し付けるわけではありません。

そう、追い詰めないこと。単に余裕がないだけなら、わざわざ追い詰める必要がない。そんなことする時間があるなら、休んで気力体力の回復に当てればいいのに、わざわざやってしまう。これは「違い」に対する本能的な拒否反応から来ているような気がします。

自分とは異質のものなり人なりがいきなり目の前に現れると、本能的に防御の姿勢を取る。これはしょうがない。逆に言えば、異質のものに対する「慣れ」があれば、そうはならない。で、この「慣れ」は誰かから与えられるものではなく、自分で獲得しなければならない。もちろん幼少時には親がその環境を整えてあげた方がいいでしょうけど、ある程度歳をとれば、そうもいかない。「慣れ」は統一的な規格ではなく、個々人が持つ距離感のようなものだからです。

一方で、「慣れ」の獲得は相互作用ですから、「異質」側の行為も問われる。攻撃されれば怖い、という気持ちはもちろんわかるのですが、ひたすら隠すだけでは「慣れ」てもらえるわけがない。その意味で、今回のNスペのような、発達障害の当事者側からの積極的な発信は必要であり、とても勇気のある行動だと思います。こんな番組普通の人はわざわざ見ないよ、という声も多々あるようですが、それでも地道に繰り返すことでしか「慣れ」は獲得できない。

異質であることを、隠すのではなくさらけ出し、ある種当たり前として認知できる社会。それは、特にこの日本では、誰でもメディアになれる時代だからこそ近づいているのかもしれません。