見えないものは、「ない」もの?

先日、前回の記事を取り上げてくださったとあるメルマガの前説(ここで読めます)に対して、こういうことを書きました。

それに関する話を一つ。

妻は軽度のADHDを自覚し、その最大の特徴の一つである「モノを片付けられないこと」がバッチリ当てはまります。結婚するはるか前から、片付けは苦手だそうです。で、聞いてみました。なぜ片付けられないのか?すると、意外な答えが返ってきました。

モノが自分の視界から消えると「ない」ものと認識されるから、というのです。

例えば、中身が見えない引き出しにあるものを片付けると、途端に自分がどこにしまったか忘れてしまう。だから、視界に入っていないと忘れるのが怖いのだ。引っ張り出すのが面倒なのだ。もっとも視界にあっても存在を認識できないことはあるようですが、これは私もままあること。

さて、ある程度片付けができる人が、引き出しにしまって見えなくなったモノを思い出すのに、どうしているでしょうか?なんらかのメモなり、頭の中の記憶なり、要は現物を思い出すためのトリガーがあるはずです。

そのトリガーがある一つの「場所」に全て集約されていれば、そこだけを見ればいいのですが、大抵何箇所かに分散されているはずです。また仮にある一つの「場所」に全て集約されていたとしても、容易に全項目をブラウズできる状態にあった方がいいでしょう。そんなシステムをわざわざ作るぐらいなら、目の前に現物がちらかってる方がマシ、という考えは(見た目はともかく)一理あります。

解決策としては、例えば引き出し自体に何が入っているかを書いておくとか、引き出し全体の一覧表を作っておく、といった方法が考えられます。妻の引き出しでは見栄えの問題等もありあまりやっていないようですが、子供のおもちゃ等を収めた棚についてはこれらの方法を実行し、それなりに効果が上がっているようです。

つまり、普段は思い出すためのトリガーだけが常に見えていて、いざという時には全項目がすぐに見られるもの。これは、WorkFlowyのようなアウトライナー(定義はこちら(takさんのブログ)がわかりやすいかと)だったらできるかもしれません。しかもWorkFlowyはファイルの概念がないので、探す手間が一段階省けます(これは意外に大きいような気がします)。

そうか、WorkFlowyは思考ツールである、だけではなく「片付けられない」人にとって最適な情報管理ツールかもしれない、とこの本を読みながら思い至りました。

クラウド時代の思考ツールWorkFlowy入門 (OnDeck Books(NextPublishing))
インプレスR&D (2016-01-29)
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この「情報管理」はタスク管理も含まれるかもしれませんね。

畑を耕すこと、花を楽しむこと

このブログの更新頻度を少し上げようと思いました。

Evernoteとアナログノートによる ハイブリッド発想術
技術評論社 (2017-05-29)
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そもそもこの本を買ったのは、ブログの更新頻度を上げることが目的ではありませんでした。これまでアナログの手帳でやっていた日記もどきを、とある理由でスマホによるEvernoteに移行して、自分のメモのデジタル/アナログ比率が変化し始めたちょうどそのときにタイムリーな題名の本が目に入ったからです。

で、読み始めて、ちょっと面食らいました。前書きに 

本書は「アイデアの教科書」を目指しました。 

と書いてあったからです。題名を見て、実際のツールに関わることが多く書いてあるだろうと勝手に想像していたのです。

そして著者はアイデアを「畑」にたとえ、種から芽が出て身を結ぶまでの一連の動きと、それを助けるための便利なツールを説明しています。つまり、アイデアが文章になって世に公表されるまでの過程を丹念に追うことが重要であって、ツールはそのサポートに過ぎない。ただし自分にあった適切なツールの使い方をすれば、大きなサポートになりうる、と主張します。

一方、私がこのブログでやっていたのはせいぜい「植木鉢」で、しかもツールは最小限。ただ、ブログとして文章を公表するまでに頭の中でやっていた作業は、この本に書いてあることの一部を実際にやっており、そのことが言語化されたこと自体が、まず私にとって大きな収穫でした。それだけでなく、ほかのやり方もあるよ、と言われたとき、あ、そうか。と思ったのです。植木鉢ができるなら、プランターぐらいのことはできるかもしれない。そう思えてきたのです。

そういう目線で、改めてこの本を読み直した時、あ、植物育てるって楽しいよね、と思いだしてきました。今まさに、うちの子供達がやっていることです。毎日水やりして、草引きして、いろいろ整えて、、、と考えた時に、自分の中で最も楽しいステップが、この「いろいろ整える」という段階でした。もっと具体的に言えば、エントリーのタイトルを考える時。

普通の植物は、種を植えた時点でどういう花が咲くかはだいたい決まっていますが、アイデアの場合、どういう花を咲かせるかは自分で決めることができる。そして、どういう花にするかによって、その後で成る「実り」にも影響する。とても重要な作業です。私の場合もあっさり決まることがあれば、最後の最後まで決まらないこともあります。筆者はこの本の中で「キークエスチョン」の重要性を指摘していますが、おそらくそれは「タイトル」の重要性に直結するような気がします。

いきなりこのブログを毎日更新にする気はありません。植木鉢をプランターに変えるにはそれなりに準備が必要です。さすがに気合だけではうまくいかない。このブログを始めてほぼ2年。無理のないペースでアイデアの畑を耕して、その面積を少しでも広げることができれば、と考えています。

自尊心をくすぐるもの、自制心を崩すもの

この本が、このブログのネタになるとは、思ってもみませんでした。

ブーメラン 欧州から恐慌が返ってくる (文春文庫)
マイケル ルイス
文藝春秋 (2014-09-02)
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ほとんど気晴らしために手に取った前著「世紀の空売り」の読み応えがあったので、その続編にあたる本書を読んでみることにしました。主題はリーマンショックに続く欧州金融危機。

「世紀の空売り」は、どことなく語り口にエンターテイメント的な感じがする(だから映画にもなったのでしょう)のに対し、今作はかなり落ち着いた、というより若干沈鬱な印象を受けました。

私は、欧州金融危機とは、お金のことに真面目とはいえない、ギリシャを始めとする南欧諸国を、他の国がいやいやながら助けている、という構図だと思っていたのですが、その認識は大間違いである、と著者は指摘します。アイスランド、アイルランド、ギリシャ、そしてドイツ。それぞれの国、あるいは国民性にこの危機を招いた要素があり、それが国によって明らかに異なることを映し出します。

この本を読んで私が関心を持ったのは、国によって大きく異なる「自尊心」と「自制心」の持ち方でした。

自尊心は人間であれば必ずといってもいいほど持っていると思います。(Aならかなわないけど)Bなら誰にも負けない、という心。私は「スペシャル」である、という心。こういう心を持つこと自体は問題なく、ある意味必要でさえいえるのですが、(私を含め)大半の人がよくわからない金融の話で自尊心がくすぐられると、大変なことが起きる。まして、もともと人間が本能的に溜め込もうとする「お金」の話ですから、問題は複雑です。

お金のことで自制心を失う問題は、単純に「うまい話に気をつけろ」という問題だけではないような気がします。一つにはバブル当時のように、周囲のみんなが「うまい話」を信じた状態で自制心を保てるか?ということ。もう一つには、バブルでなくても、ネットには自尊心をくすぐり自制心を失わせる情報がいくらでもある、ということ。だからといって、情報を遮断すればいいという話ではなく、事実上不可能です。では、どうすればいいのか?

「自己規制を拒むのであれば、我々を規制してくれるのは、環境と、環境が我々の権利を剥奪していくその過程だけです」(略)言い換えれば、意味のある変化を起こすには、必要量の苦痛を我々に与えてくれる環境が欠かせないということになる。

本書で登場するある学者の指摘です。この指摘をリーマンショックを重ねあわせた時、自制心を失った先にあるものは、相当にきついハードランディングを連想してしまいます。

一方で、多くのイノベージョンはある意味自己規制を突き抜けた先にこそある。リーマンショックはCDSというとんでもない金融商品のイノベージョンによって生まれたわけですが、逆に人々の幸福に資するイノベージョンも同様です。

私たちがみんなすごいイノベージョンを発明する必要がないにしても、「必要量の苦痛」の経て得られる変化、そしていい意味での自尊心の進歩は、自制心の適度なコントロールの先にあるのかもしれません。

人生は、一本道ではない

子供たちの夏休みは、折り返し点を迎えました。

この一学期の子供の通知簿を見ながら、妻といろいろ話したのですが、「(上の子)は、普通に会社員になって事務とか何かする、といった人生歩まなさそうだよね」という点で意見が一致しました。まだ小学校も出てないのに、もうそんなこと決めちゃっていいのか?

学業面の評価が低かったわけではありません。むしろ(親自身の)予想外に高い。行動面での評価を見たり、音楽と図工が好き、という子供の言葉を聞いたりしていると、ああ、単純に偏差値競争に巻き込まれるのはかわいそうだな、と思ったのです。もっとも、今のところ音大とか芸大に行かせる気はないのですが。

そこで思い出したのが、少し前に読んだこのブログでした。

日本の『好きなことやれないサイクル』はヤバい。年を取れば取るほど取り返しがつかなくなるので、若者の皆さんは早めに抜け出してください。

日本では、物心ついたときから個人が常に画一的な物差しによって計られていて、小3くらいからずっとそれに追いかけ回されて、自分が何が好きかといったことに向き合う暇がありません。

これは、確かに気をつけなければなりません。子供が、というより親や社会が。親や社会が「画一的な物差し」を当てたがるのは、単純にそれが楽だから、めんどくさくないからじゃないか、と思っています。画一的な社会を作りたい、という何かの陰謀があるわけではない。ただ単純に、ややこしいことを考えたくないから。そこから抜け出す仕組みなりマインドセットなりは必要な気がします。それには、自分自身に「画一的な物差し」を当てないところから始めなければならないかもしれません。

もう一つ、なるほどなぁ、と思ったのは「ミッドライフクライシス」の話。確かにそうかもしれん。

僕の少ない社会経験から確実に言えるのは、一回社会人になってからこのサイクルから外れようとするのは非常にエネルギーが要るということです。なのでこれから、在学中にこのサイクルから脱する大学生が増えることを切に願っております。

ところで、私は普通の会社員であり、筆者の言う「画一的な物差し」にどっぷり浸かったりして、いい年のオヤジになりましたが「ミッドライフクライシス」はあまり感じていません。なぜか?と少し考えて、気づきました。

この筆者も「罠」にはまっているのではないか?つまり、普通の会社員=画一的な日本人になるか、そうならない=フリーランスか、の二者択一しかない。そんなことはないだろ?と思うのです。現に私の趣味の友人は大半が普通の会社員ですが、『好きなことやれないサイクル』にはまっているようにはとても見えない。

確かに普通の会社員だと、ミッドライフクライシスにはまる可能性は高い。それは認めます。大学生のうちにいろんな可能性を追求するのはとてもいいことです。やりたいことを見つけた筆者に「会社員に戻れ」とは言いません。筆者の「画一的でない」のレベル設定がかなり高く、普通の会社員じゃそんなレベルまで行けないよ、というならそうかもしれない。でも、普通の会社員になったら即アウト、というのはちょっと違うのではないか。

普通の会社員をやりながら画一的な日本人にならないようにするやり方は、いくらでもあるような気がします。人生は、一本道ではないのです。いついかなるるときでも、軌道修正の可能性があります。このブログも、そんな軌道修正に向けた小さなあがきの一つかもしれません。

マイノリティに向き合う「リエゾン」

 年末年始にこの本を読んでいました。年末、一気に3巻4冊を読了。あまりにハマって他に支障をきたしかねない状況になったので、年越し前後は小休止。今再び読みすすめています。

天冥の標Ⅲ アウレーリア一統
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 小説というものは、読む人の頭の中にあるものによっていかようにも解釈できるのかもしれませんが、私はこのシリーズの大きな主題のひとつに「マイノリティ」があると感じています。
 本人の意思とは全く関係のない理由で「マイノリティ」の立場を受け入れざるをえなくなった人々。その集団に対するいわれのない誹謗中傷や差別は、今も止まないし、本巻の舞台である24世紀になっても止むことはないのでしょう。

 捨てる神あれば拾う神あり。24世紀にも、支援者がいます。この本ではマイノリティである「プラクティス」に向き合う存在として「医師団(リエゾン・ドクター)」なる集団が登場します。「医師団」のメンバーであり、本巻の主役の一人であるセアキのおっさんが大好きということもあり、今まで読んだ中では一番好きなエピソードです。
 このセアキのおっさんは、「プラクティス」のはねっかえり(?)をなだめすかし、彼らがこの時代の世界と共存するために微力を尽くします。その全然政治家っぽくないやり方が面白いのですが(政治家を否定するわけではありませんが)、彼のように、マイノリティとマジョリティをつなぐ人、あるいは複数のマイノリティ間をつなぐ人というのは、今後、さらに多様化する世界の中で重要な役割を担っていくような気がしています。

 多くの情報が行き渡り、劇的なコスト低下が進んだ今の社会では、均質化と多様化が同時に猛烈な速さで進行しています。私は年末に書いた通り多様性を重視したいのですが、完全に分断化された世界を望んでいるわけではありません。それぞれの個性は認めながら、やはり、それなりに共存したい。そのためには、セアキのおっさんのような目線を持つことはとても大事だと思うのです。
 私はこれからも、ある面ではマイノリティの一員として、またある面ではマイノリティに向き合う「医師団」の一員として、微力を尽くしたいと思います。

 今年も、よろしくお願いいたします。

自分が我に帰るための、二つの「クモ」の目線(1)

私のTwitterのタイムラインに、自分は何のために生きているか、とか、自分は誰の役にたつか、といった話が時々流れてきます。

私は正直申し上げて、自分が何のために生きているか?を真剣に考えたことがありません。ただ、なんとなく地に足がついていないような、中途半端な感覚を覚えることが時々あります。私、なんでここにいるんだっけ?みたいな。

そんな時に、我に帰るための糸口として、二つの視点で見たらいいのではないか?と思っています。少々こじつけですが、「二つのクモの目線」と名付けました。

一つ目が「蜘蛛の目線」。今の自分の役割と、その影響度合いのようなものを確認することです。
例えば、私は「自分自身」「世帯主」「コミュニティーの一員」という3つの役割を設定しています。この3つの役割から、それぞれやりたいことや、やるべきこと拾い集めれば、我に帰る糸口がつかめるのではないか、と考えています。

「自分自身」というのは、個人として何をやりたいのか?ということ。他人のことはすべて置いて、これを買いたい、あれをやりたい、あそこに行きたい、といった話。ある意味「安全地帯」の設定かもしれません。これがあれば安心、という感覚。私にとっては、このブログもそのひとつです。
他の二つに比べて、今の私にとってここの範囲は極めて狭いです。狭いからこそ、押しつぶされてはいけないような気がしています。押しつぶされては、あとの二つの役割を全うできません。

「世帯主」は、つまりは家事と育児。妻のケアを含む。今の私にとってこの範囲は広大です。
例えば子供に関して言えば日々の宿題チェックから始まって、習い事の管理、広い意味でのモチベーションの維持なんかも大事。プレゼント(今の時期だとクリスマスプレゼント)を考えるとかも入りますね。
以前申し上げたことのある家族のスケジュール管理や、家の中にあるもろもろの財産管理。悩みは尽きません。

「コミュニティーの一員」は、自分の所属するすべての集団に関すること(家族は除く)。勤め先、近所付き合い、学校や幼稚園の親つながり、趣味の仲間たち、そして、親族。そのつながりのなかで、やりたいことや、やるべきことをピックアップしていきます。
勤め先をここに含めるのはちょっと強引かもしれません(かなりの時間を割いていますから)が、この順番に考えること自体に意味があるような気がしています。うまく説明はできないのですが。

全面改訂版 はじめてのGTD ストレスフリーの整理術
デビッド・アレン
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やりたいことや、やるべきこと拾い集めるというボトムアップ的な考えは、この本で有名になった「GTD」的な考えです。当初私はこれを「亀の目線」と名付けてました。
でも、思えば、コミュニティーの一員であること自体が他人になんらかの影響をあたえている。蜘蛛の巣の糸に少しでも何かが引っかかったら蜘蛛が反応するように。そうか、私は蜘蛛だったんだ。その「反応する」という感覚を忘れないことが、生きている証拠なのかもしれません。

この項、続きます。

強制力を働かせない強制力

この本の感想の続きです。

21世紀の自由論: 「優しいリアリズム」の時代へ (佐々木俊尚)

二つ目のキーワードは、コミュニティ。
ご参考までに、私と妻で共有する、ある趣味のコミュニティのことを書きたいと思います。

このコミュニティは年会費制を取っています。年度ごとの更新規定も厳密です。なのでメンバーか否かは明確に区分されますが、参加形態はかなり自由です。ガンガン参加する人、全く参加しない人、私や妻のようにたまに参加するが顔を出すだけの人。ここにあまり明確な仕切りはありません。ただ、参加形態にかかわらず、会費の額は一律(ありていに言えばタダ同然)です。
また少なくとも私が入会したここ15年ほどで(主要メンバーが大きく入れ替わっているにも関わらず)こういったノリに変化はありません。それは、設立以来の不動の中心メンバーが、あまり強制力を働かせていないからかもしれません。強制力を働かせない強制力。

また、不動の中心メンバーの少なくともひとりは、上記佐々木さんの本で言うバリバリの「リベラル」ですが、個人の考えをこのコミュニティには持ち込みません。メンバーのなかにも「リベラル」的考えを持つ人が少なくなさそうで、このあたり、単純にマイノリティとしてのシンパシーがあるのかもしれません。
但しコミュニティの方針とは別です。個人的な思想として持つことは否定されていませんが、あまりにあまりの人は、排除されるか、自分で出て行きます。コミュニティとしてのなんらかの「共通善」が定義されて、コミュニティの中で定着しているからでしょう。

ADHD関連のwebつながりでも、似たような印象を受けています。固定度はないが、リーダーが不在、とも言い切れません。それなりにメンバーの数はあります。これがどのように成長するか、しないのか、を見ていくのは単純に興味としておもしろそうです。私もなんとなくメンバーのひとりではあります。しかもADHDそのものの当事者ではありません。

政治の世界は基本多数決なのでマイノリティーを排除する方向にいきがちです。なので、マイノリティーは反感を持って反権力になるのは、ある意味自然なような気もします。でも、反権力の示威行動だけではサイレントマジョリティーは動かせません。それ以上の何かが必要です。
そもそも「サイレントマジョリティーを動かす」こと自体が必要かどうか、という話もあるのですが(「隠れ家」というキーワードもあったりして)、ネットに、コミュニティに、何が出来るか? 当時者的にも、観察者的にも、この話はとても興味があります。

マイノリティーの中の人、向き合う人

この本を読みましたが、難しかった。自分の中で消化するのに、時間がかかりました。

21世紀の自由論: 「優しいリアリズム」の時代へ (佐々木俊尚)

で、自分に関係しそうな二つのキーワードをなんとか見つけました。一つ目は、マイノリティ。

例えば日本国民全体対して、ある条件を当てはめたときに、必ず「マイノリティー」が設定されます。で、そのマイノリティーに対して、このような3分類を思いつきました。

中の人
向き合う人
無関心の人

「中の人」は、文字通り該当する人。該当しないのに「中の人」になりたがる人もいますが。「向き合う人」とは、意図するしないとに関わらず、中の人に向き合う(あるいはそうせざるを得ない)立場の人を指します。単に非難するだけの人は「向き合う」とは言えないかな。無関心とは違うと思うけど。

例えば、私と妻は、小さい子供を持つ親という意味では「中の人」です。私はここではマイノリティーそのものです。妻の喜びは、私の喜びでもあります。

一方、私はADHD/神経症については「向き合う人」です。妻のADHD/神経症に対して否応なく向き合わければなりません。妻の課題は私の課題でもあるのですが、私自身はこの症状を持っているわけではないので基本的に「中の人」にはなり得ません。

で、この3分類は明確に区分があるわけではありませんが、「向き合う人」はあまり注目されてないのではないか、場合によっては「中の人」そのものよりもさらに少ないのではないかと思います。ここで、前回の記事とちょっとつながるのですが、結構孤独で大変なんです。向き合う立場は。

ただし、やむなくとは言え、このような立場を得たことはこれからの人生で貴重な体験です。冷静さを失ってしまうと簡単に「中の人」(佐々木さんの言うマイノリティー憑依)になってしまう。そこで冷静さを失うことなく、マイノリティーの立場を理解することは、とても大事なような気がします。そもそもADHDの人は(身体的特徴として)冷静さを持つことが難しい人ですからなおさらです。

私はADHD/神経症の立場の人を理解するために、本人のブログだったり、(妻ではなく)子供さんがADHDである親御さんのブログを拝読したりしています。まだまだ自分として確固たる意見を持っている訳ではありません。ただ、マイノリティーに向き合う人、という視点はブログ、というよりライフワーク的なネタになりそうな気がしています。

フロンティアは、広くて険しい

先日からカテゴリーの名前を少し変えました。「ADHD」を「ADHD/不安障害」に変更しています。変えた理由などは、また項を改めます。

さて、以前、大人のADHDを家族に持つ(非ADHDの)方のブログがない、といったことを申し上げました。本当にそうなのか?今頃ではありますが、ググってみました。
試しに「妻はADHD」というキーワードでググってみましょう。いやぁ、びっくりした。1ページ目に離婚問題を扱う弁護士サイトがヒットしました。配偶者のADHDは、即離婚問題に行っちゃうんですねえ。それほどクリティカルであるというのは、わからんでもないけど。
 
で、話を戻して、Q&Aのような掲示板は多数ヒットするのですが、ブログは少数。頭から10ページほど見てみましたが、1年以上継続して更新しているようなブログは見あたりませんでした。数ヶ月程度更新して止まってしまった(あるいは更新中)のブログがいくつか。開設間もない当ブログが7ページ目ぐらいに出てきました。

そうかあ、と思いました。大人のADHDはここ数年よく取り上げられるようになりました。でも、角度を変えればこのアイテムでさえまだまだニッチであり、開拓のしようがあるんだなあ、と。
そう考えると、ブログや個人メディアに残されたフロンティアって、まだまだあるのかもしれません。マスコミや普通の書籍ではカバーできないフロンティアが。 

もうひとつ感じたのは、ブログを続けるのは、やはり大変なことなのだ、ということ。

ネットで成功しているのは<やめない人たち>である

かなり前にこの本を読んでいました。ブログを書くことに興味がなかった時期でしたが、続けることの意義みたいなことを考えてみたかったのです。そこで出てきたことばが

「どうすれば、多くの人に見てもらえるブログにすることができるのでしょうか?」という質問をよくされます。正直なところ、そんなものに回答なんてないのですが、それでも確かに言えることが一つだけあります。それは「ブログをやめないこと」です。少なくとも3年ブログをやめないこと

でした。PVを追うつもりはなくても、自分にとってある程度の意味のある情報の厚みを持ったものにするには、確かにそれぐらいの期間はいるのかもしれない。3年か。私には絶対無理だ、と読んでて正直思いました。今でも出来る確信なんてないのですが、やってみなけりゃわからんじゃないか、ぐらいには思えるきっかけはつかめるようになりました。

私がADHD関連でどこまでできるかわかりませんが、少なくとも開設のきっかけにはなったアイテムである以上、もうちょっとは引っ張りたいと思います。離婚とかではなくて、brightな方向で。

終点でもあり、起点でもある

いやぁ、びっくりしました。本当にありがとうございます。
こんな超弱小ブログにリツイートをいただいて、なかんずく記事がひとつ生まれたのですから、なんとかしてお返しをするのが礼儀というものです。

R-style » ブログ、隠れ家、書斎

私は『ブログを10年続けて、僕が考えたこと』の中で、「隠れ家ブログ」という概念を提出しました。
で、上の記事で紹介されているいしたにまさきさんの『あたらしい書斎』では、ブログをウェブ書斎(開かれた書斎)の一つとして位置づけられています。
でもって、書斎=男の隠れ家という補助線から、それって同義ですよね、という視点が上の記事では提出されています。
思いつきすら、しませんでした。

前回のブログでピンとこない、と申し上げた理由のひとつは、この「開かれた書斎」という概念でした。「籠もる」書斎に「開かれた」というイメージが、どうもかみ合わない。
それに、昔、メディアが本が雑誌しかなかったころでも、考えたことを書くだけでなく、その意見を手紙が何かで著者に伝える手段は一応あったわけです。だから、今も昔もある意味「開かれ」てはいたのではないか。なのに、なぜ? 

まず、違うのは、スピードと広がりでした。ブログがある。Twitterがある。すると、著者へのフィードバックが格段に早い。ブログ界の片隅で私がポストした意見がR-Styleを通して多くの方の目に触れるまで、わずか1日。
さらに、メールでも手紙よりは伝達速度は早いだろうけど、どちらもベースは「1対1」。相手の目に触れなければ、それでおしまい。今回のようなやりとりができたのは、リーチの懐が広くて深いブログならではなのでしょう。だから議論の広がりも深さも、変わってくるんですね。

そして、ブログについて、私は考えて書くところまでしか思いが至っておらず、その後のことは正直過小評価してました。

ブログというシステムが登場する前にはこの社会には存在していなかった、そしてブログ以降に誕生したメディアのスタイルとは何か、という問いかけです。
その答えは、__特にこの日本においては__個人が議論の起点となる場所を持つ、ということでしょう。それは、誰か著名人を引用しなくても、「すげーこと」だと言えそうです。

まあ、なんとなくそうかもね、とは思ってました。でもそれは、(すごく有名ではなくても)多少の知名度がある芸人やら政治家やら作家やらに言える話であって、わずかひと月半前に読者ゼロから「隠れ家ブログ」を始めた自分にとってはさすがに関係ない話だろうと思ってました。
でも、今回その現場を目の前で見せつけられた以上、そうも言ってはいられない。ブログは議論の(とりあえずの)終点であり、起点でもある。正直終点のことしか考えていなかったけれど、隠れ家ブログといえども起点になりうるんですね。開かれた書斎、おそるべし。

これからも、こういう楽しい機会があるかもしれませんが、起点でもあることをわきまえ、おごることなく精進したいと思います。