立ち止まり、省みる(2)

前回の続きです

マジメすぎて、苦しい人たち―私も、適応障害かもしれない…
松崎 博光
WAVE出版
売り上げランキング: 28,623

先日、妻にこう言われました。
今の生活は、達成感を実感しにくい。だからストレスがたまる。
結構重い一言でした。

妻は、専業主婦です。「あなたは仕事をしているから、達成感や自己実現を味わうことができるけど、私にはこれがない。仕事に戻りたいのは山々だけど、こんな体調で、こんな環境で戻れるわけがない」妻は、こう言います。たしかに、そんな大きなことをしているわけではありませんが、今の仕事に達成感がないといえば嘘になります。

一方、家事育児には明確な「ゴール」というものが存在しない(大学に入れること自体が育児の目的か?と言われるとちょっと違う気もします)ので、達成感や自己実現を感じずらい。これもわかります。私自身も何か徒労感を感じていたのは、この辺りに関係するのかもしれません。

こういった場合、どうすればいいのか?満たされない感の対象は「当面の暮らし全体」のような気がします。だとしたら、そのスコープを細分化するか、あるいは思いっきり俯瞰するか、ということが考えられます。前者は、よく言われる「タスクの細分化」です。細かいタスクの成功を通して、小さな達成感を積み重ねる。では、後者は?

私はいつも患者さんに「人生はマラソンだ」ということを言っています。観客に声援を送られ、激励されたからといってスピードを上げ、途中で脱落してしまうよりは、マイペースで最後まで完走できる方がいい。

そう、人生全体。最後にどうなるか、という視点。これは日々の生活に追われている多くの人々(もちろん私を含む)にとってなかなか持ちにくい視点です。でも、とても大切です。

もう一つは、自分のペースを忘れないこと。今回の大ピンチの要因は、まさに私が自分のペースを忘れて変なところでダッシュしてしまったことにほかなりません。

しかし、今回ひどい目にあったことは、悪いことではない。今までやってきたことがオーバーペースだということが、明確に認識できたから。

適応障害になったということは、努力や忍耐、社会的適応だけではない、ほかの価値に気づいて生きていくためのターニングポイントが訪れたということかもしれません。
「新しい自分、新しい生き方を見つけるチャンスになった」と考えれば、適応障害を起こしたことは、むしろ今後の人生にとってのプラスポイントになっていきます。

この視点は、こういう心境になって初めて実感しました。やはり、ターニングポイントだったのでしょう。いきなり何かが変わるわけではない。しかし、視野が変わることはこの先とてもジワジワ効いてくるような気がします。

立ち止まり、省みる(1)

自分を省みて、これはまずい、と思いました。
その時、妻の本棚にあったこの本が、ふと目に止まりました。

マジメすぎて、苦しい人たち―私も、適応障害かもしれない…
松崎 博光
WAVE出版
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この本には「適応障害」の具体的な症状の説明、治療法、そして適応障害にかかりにくくするための対処法といったことが書かれています。私は、この本の定義によれば、まだ適応障害ではありませんが、一歩手前の状態。そこで、この本に書かれている「対処法」の部分がとても参考になりました。

ところで、前回のエントリーで「決断した」と書きましたが、まずは、自分に関する「やりたいこと」を削減しました。感覚的にですが、今回はかなりバッサリ切りました。効果が現れるのはこれからであり、いきなり何かが劇的に変わったわけではありませんが。

自分の「やりたいこと」の見直しは以前にもやったことがあります。ただ、今回初めてやったのは、同時に妻にも「やりたいこと」を減らすよう要請したことです。

妻はADHDの傾向があり(正式な医師の診断は受けていませんが)放っておくとすぐに「やりたいこと」を増やす傾向にあります。それが自分で全部できればいいのですが、たいていできないため、それが家事育児の「やるべきこと」に影響する。そして、それをフォローする私の精神が崩壊し始めたのです。すでに妻がなっていると思われる適応障害に、私自身もなってしまいかねない、と気づきました。

平日でも仕事と家事育児に全力投球している私が、いくら子供がいるからといって、土日に全く休めないのは、どう考えてもおかしい。いろいろなことを根本的に変える必要がありました。具体的な「リスト」だけでなく、考え方を、フレームワークそのものを変える必要がありました。そのためのキーワードが、この本に書いてありました。

適応障害を克服するには、それを起こす環境に適応しないことが一番です。「適応障害にならないためにはどうしたらいいですか?」「無理に適応しないことです」こんな禅問答のようなことが問題を解決する有効策です。

私の場合、これ以上無理に適応しない、ということは、妻に対して「ごめん、これ以上(のサポート)は無理」と宣言することを意味しました。これは正直きつい。妻のtodoを増やす可能性をはらんでいるからです。でも言わなければなりませんでした。これをしないと、私のサポートが急にゼロになって、明確に妻への負担が増えてしまいます。

もう一つ、キーワードというより、反省すべきことがありました。それは、私が「自立」の意味を完全に取り違えていたこと。

自立というのは、誰にも何にも寄りかからず、ということではなく、寄りかかったり寄りかかられたりしながら自分の足で立って考え、動けることを言いますが、自立した生活こそがストレス弾を防ぐ盾になってくれます。

そうでした。私は明らかに適応障害にハマっている妻に寄りかかることは、よくないことだ、と思っていました。私がマジメすぎるのかどうかは、正直よくわかりません。ただ、明らかにマジメになるべき方向性が間違っていたのかもしれません。

この項、続きます。

我に返ること、我に帰ること

この夏に、一つの大きな決断を下しました。

前回のエントリ時では、個人的にいろいろ苦しい状況下にありました。というより、長い期間少しづつ積み重なってきたストレスの大きさに気づいてハッと我に返り「これは大変だ!」とある日突然実感した、といった方がいいかもしれません。

思えば、いろいろ抱え込んでいました。家族のこと、コミュニティのこと、仕事のこと。仕事のことは以前から意識して抱え込みすぎないようにしていたのでいいのですが、特に家族のことを抱え込む負担が増大していた、と今にして思います。

ただ「適正量」がわからなかった。これは3つの意味があります。

1、自分にとって深刻な負担にならない量
2、家族に深刻な負担が発生しないように、自分が抱え込む量
3、世間的に見て「これぐらいはやらんといかんでしょう」と思われる量

3、はおそらくクリアしていると思います(確たる自信はないのですが)。問題は1、と2、のかねあいです。妻の適応障害をフォローすべく2、のレベルを高く見積もっていました。すると、いつの間にか1、を超えていたのです。

また、家族の動きと某コミュニティの動きが密接に関わっているという特殊な事情もあり、コミュニティを含む多方面に向けて「もういい加減にしてくれ」と叫ばざるをえない状況になってしまいました。

いい加減にしてくれ、はわかった。じゃあ、これからどうするんだ?と思ったときに、このブログが、後押ししてくれました。

〈混ぜるな危険〉R-Style

これは、決定論・運命論でもなく、かといって自己が世界を支配するという話でもありません。どちらかと言えば、その領域を〈行ったり来たり〉するものなのでしょう。
自分のリストを作ること。それはつまり、他人のリストを混ぜないことです。
自分の人生を生きていくために、これ以上必要なことはないでしょう。

上記の1、と2、の間でtodoが混ざる。しかし、1、の限界を超えると自分が崩壊し、いきなり2、がゼロになる。これが家族にとっていいはずがありません。だから改めて自分のリストの確立すること、つまり「我に帰る」ことが必要だ、と感じました。

妻がよく言います。体調がきついから、代わりにやってくれ。これは、今までの私にとってほとんど「命令」でした。自分自身の体調や気分に関係なく、無条件かつ最優先に行うべきものでした。妻がどう思っていたかわかりませんが、結果としてそうなっていた。

しかし、申し訳ないけど、今後はもう無条件かつ最優先ではない。妻の負担を増やさず、私の負担も(大きくは)増やさず、かつ家がなんとか回る方策が最優先である。そのために、家のルールを変え、私の「リスト」を変える決断を下しました。

まずは自分のリストを整えること。これがシンプルに自分の人生を生きていく第一歩かもしれません。

休養という名のタスク

夏休み。
子供たちの世話が一層大変になるこの時期に、逆に「休もう」という話で恐縮ですが…

残念な人類のためのタスク・スケジュール管理術:発達障害就労日誌

先日twitterで取り上げた方のブログです。この方自身がADHDで、読者もADHDの方を想定されたものですが、ADHDに向き合う人、私を含めADHDの方のタスク構築に向き合う人にとっても、非常に参考になります。このエントリで最も強調しているのは、

まっさらの手帳、あるいはインストールしたばかりのアプリに最初に記入するべきは、「最も重要で」「最も実行の容易な」タスクなんですよ。これを軸にして予定を立てるべきなんです。はい、具体的にそのタスクとは何か。休養です。何もしないというタスクです。

私もよく妻に言います。まず、あなたが休む日を取って、と。ところが妻はこれを実行しません。それには、いくつか理由が考えられます。

まず、妻が専業主婦であり、働いている私よりも時間の自由がきく、ということ。これは普通の専業主婦ならその通りですが、妻は普通の専業主婦ではありません。すぐに頭の中が混乱し、子供達を学校に行かせるタスクを終えた時点でかなりの気力体力を消耗し、かつ最低週1回はなんらかの通院が必要です。あっという間に時間が過ぎる。一見平日は容易に「休養」が取れそうなのに、結果的にできない。そして、常に子供がいる休日は言わずもがな。

もう一つは「私よりもあなたの方が大変だから先に(休みを)取って」。日本人の美徳、「譲り合い」の精神です。あの東日本大震災で被災された方が「もっと大変な方がおられる」と静かにおっしゃっていた光景を何度も目にしました。これはこれで(エゴ丸出しよりも)とても素晴らしいことなのですが、これが過ぎると、逆に「物事が進まない」という弊害が発生しかねません。そこで、そう言われたら、私は遠慮なく休むことにしています。でないと、妻が休まないからです。

人間は休日が大好きなくせに、いざスケジューリングをする段になるとそれを一番おろそかにします。しかし、このガンガンスマホが鳴りメールが届きラインがピンピンいう時代に、「休養を取る」というのは立派なタスクです。そこには明文化された意思の力が必要です。

そう、意志の力。「休養」というタスクは、実行は容易なのに、設定はとても困難です。特にやりたいことがいっぱいあるのに、そのやりたいことを押しのけて空白の時間を設定するということは、ADHDでなくても、実はとても勇気がいることなのでしょう。

そういう私も「休養」は滅多に取れません。家は休息の場所ではなく、常に家事育児に追われる「戦場」です。子供に対して、あれやれこれやれ、と言っている一方で、こちらが何もしないと「何サボってるの?」と言われかねない。だから子持ちの親御さんはなおのこと「休養」が取りづらい。これは本当に実感しています。

ただ「休養」というタスクは、「できるときにやっておかないと、いつまでたってもできない」という感覚に対する抵抗ではない。むしろ逆で、「休養」を意図的に設定することで実行可能な時間が制限され、本当にやりたいことが無意識にしろ選別される。

「子供に対してできる限りのことをしてあげたい」という思考に対する裏切りでなく、最終的には家族全員の心の平静という最も高い価値を産むもの。「休養」というタスクは、「サボる」というネガティブな感覚とは逆に、Quality of Lifeを高める近道の一つなのかもしれません。

「余裕」がわからない社会、「違い」がわからない社会(2)

前回の続きですが、単にこういう社会はダメだ!という批判しているわけではありません。そもそも自分自身も今の社会を作り上げた一人ですから、反省の意味も込めて書いています。

ところで、前回

「誰それができたのだから誰でもできるはず」と思う人が多い社会

と申し上げました。これは「あなたは、私とは違う」、つまり「違い」の認識ができにくい社会である、とも言えます。「違い」の認識ができにくい、というのは、一つには日本がほぼ単一民族だから、というのもあるのでしょうが、それよりも、ただ単に「違い」を受け入れることのできる「余裕」がないからではないか、と思っています。

また、こんな社会になってしまったのは、社会を構成する人の大半が「余裕」のある社会そのものを経験していないのも原因のひとつではないか、と思っています。戦後の混乱、高度成長期、そしてバブル。「右肩あがり」ではあるが、しんどいのが当たり前と思っている。しんどくないのは罪とさえ思っている、とは言い過ぎでしょうか。もちろん、すべての責任を、そういうことを経験してきた年長者に押し付けるわけではありません。

そう、追い詰めないこと。単に余裕がないだけなら、わざわざ追い詰める必要がない。そんなことする時間があるなら、休んで気力体力の回復に当てればいいのに、わざわざやってしまう。これは「違い」に対する本能的な拒否反応から来ているような気がします。

自分とは異質のものなり人なりがいきなり目の前に現れると、本能的に防御の姿勢を取る。これはしょうがない。逆に言えば、異質のものに対する「慣れ」があれば、そうはならない。で、この「慣れ」は誰かから与えられるものではなく、自分で獲得しなければならない。もちろん幼少時には親がその環境を整えてあげた方がいいでしょうけど、ある程度歳をとれば、そうもいかない。「慣れ」は統一的な規格ではなく、個々人が持つ距離感のようなものだからです。

一方で、「慣れ」の獲得は相互作用ですから、「異質」側の行為も問われる。攻撃されれば怖い、という気持ちはもちろんわかるのですが、ひたすら隠すだけでは「慣れ」てもらえるわけがない。その意味で、今回のNスペのような、発達障害の当事者側からの積極的な発信は必要であり、とても勇気のある行動だと思います。こんな番組普通の人はわざわざ見ないよ、という声も多々あるようですが、それでも地道に繰り返すことでしか「慣れ」は獲得できない。

異質であることを、隠すのではなくさらけ出し、ある種当たり前として認知できる社会。それは、特にこの日本では、誰でもメディアになれる時代だからこそ近づいているのかもしれません。

「余裕」がわからない社会、「違い」がわからない社会(1)

先日のこの番組の影響で、私のTwitterのタイムラインが沸騰しました。

NHKスペシャル|発達障害 ~解明される未知の世界~

私のフォロー先(発達障害の当事者も少なからずいます)の評価は、概ね好意的に見えました。たしかに突っ込みどころはあるけど、まずはこういう番組がNHKスペシャルとして製作されて、不特定多数が見た、という事実だけでも大きな前進。私も、発達障害の当事者ではありませんが、同意見です。

そういった議論の一方で、いろいろ考えがタイムラインを流れていったのですが、その中で一番感銘を受けたのが、これでした。

これは、軽度のADHDである妻を毎日見ており、以前適応障害に関するエントリーを書いた私にとって、とても重要な指摘です。極言すれば、どれだけ脳機能に障害があっても、社会と折り合いをつけることができれば「生きづらさ」は感じず、あまり不幸にも思わない(そういうフリをしているだけ、であれば別)。

ところがADHDの程度が軽くても、ママ友との付き合いがきついとか、自分の頭の中がどうやってもまとまらなくて生活していくのに苦労する、という状況であれば、医師の正式な診断があろうがなかろうが、対処が必要な問題です。その生活は当然「社会」と密接に関係していて、社会とどう向き合うか、という問題に帰結します。

テクノロジーの発達等により人々が受け入れることのできる「総量」はたしかに以前より増えたけれど、社会が求める「総量」の増加は、それを上回っているような気がします。特に「誰それができたのだから誰でもできるはず」と思う人が多い社会では、これが顕著に出る。

自分たちで勝手にレベルを上げて、自分や他人の首を絞めにかかる。これはさすがにヤバい、と関係者一同が実感してやっと変わった典型例が、ヤマト運輸の昨今の対応だったような気がします。最低週に1回はヤマトさんや佐川さんのお世話になっている私にとっても、身近な、そして反省すべき事例でした。

社会の個々人が生活の質を上げようとして、社会に対して求める「総量」が大きくなると、シンプルに考えれば、社会の人口が増えない限り、逆に社会の構成員でもある個々人の余裕がなくなっていきます。そうすると、今までなんとか折り合いをつけることができた人がドロップアウトを余儀なくされる。これはどう考えても本末転倒です。

もちろん、質を下げて昔に戻れ、と言いたいのではありません。ただ、やはり色々な理由で、私たちは社会に対して何かを求め過ぎていたのだろう、という気がします。新たなテクノロジーが生まれて、それを試しに使ってみて、それを生活の質の向上の糧にするのはいいとしても、そこで達成された新たなレベルを、ありがたいものではなく「当然のもの」として認識された時、社会が少しずつおかしくなっていくような気がします。

この項、続きます。

「いい加減」な親、いい「加減」な親

3月になりましたが、毎年冬から春先は妻の体調が一番きつい時期です。精神的な影響も大きく出ます。
といった状況で、このブログを読んで、いろいろ考えさせられました。

あなたは「正しい親」をイメージできますか:シロクマの屑籠

 子どもを一人で置き去りにする親は正しくない。
 子どもに体罰する親も正しくない。
 子どもの教育に無頓着な親も正しくない。
 不規則な生活や偏った食事に無頓着な親も正しくない。

私事で恐縮ですが、私は物心ついたころから片親で育ちました。毎日働いていて、かつ実家や親類とはほとんど接触がありませんでしたから、当然自分は一定時間放置されます。さすがにひとりで放置は危険と思ったのか、ほぼ毎日塾か習い事のようなことをやってました。なので、教育に無頓着ではありませんでしたが、生活や食事は不規則でした。見事に偏食でした。

で、うちは当時からなんとなく「正しい親」ではないとは思ってましたが、自分を育てるためにやむを得ないとも感じてましたし、多種多様な家庭環境をクラスメートとかから聞くなかで相対化し、「衣食住と、多少のおもちゃがあれば十分ありがたいのだ」と思っていたので、言ってみれば基準となるベースが低かったのです。

一方、私の妻の両親は、多くの方が「正しい親」だと認定してしかるべき方です。厳格な父親、家事万能な母親、当然親戚筋の付き合いは欠かすことなく、娘にはカッチリと門限が設定される。もちろんクラスメートから多様な家庭環境は聞いていたようですが、伝家の宝刀「ヨソはヨソ、ウチはウチ」であっさり説得されてしまい、自分にとっては自分の家が当たり前、と思ってしまったようです。

すると、どうなるか。「正しい親」である彼女の両親が無意識にもベースとなる。さらに彼女は軽度のADHDですから、彼女の母親のように家事や育児がキチンとできないことがままある。そこで「自分はダメな人だ」と思ってしまう。

ここで、問題点が二つあります。一つは基準のレベルをどこに置くか。低ければいいという問題ではありませんが、高すぎると、破綻します。
 
もう一つは、どの程度「幅」を持たせるか。いくら出来る人でも、調子の悪い時はあります。そこで一定の幅を許容しないと、これまた破綻します。ところが、頭の中が簡単にとっちらかるADHDのよう方は、この調整が難しい。極端な話、オンとオフしかできない。ずっとオンのままだと、当然破綻します。

私は破綻を回避すべく、半ば意図的に子供の前でオフ状態を見せるので、子供たちから「適当大魔神」という、わけのわからんあだ名をもらっていますが、悪く言えば「いい加減」です。

そんな私を、いい「加減」ができるからうらやましい、と妻は言ってくれますが、やりたくてもできない彼女の気持ちを察することしかできません。これは誰かに言われて急に出来るものではない。長い年月をかけてゆっくりと変わっていくものでしかないような気がします。気長に、待つしかない。

自己愛研究で名高いハインツ・コフートという精神科医は、「最適な両親とは“最適に失敗する”両親のことである」という言葉を残しているが、私もそのとおりだと思う。

これは至言だと思います。私が最適な親かどうかはわかりませんが、少なくとも、いついかなる時も「正しい親」であることを押し付けて、子どもを窒息させるようなことはしたくない、と考えています。

極言すれば「正しい親」なんて、この世に存在しません。存在しえないものを要求するのは、理不尽でしかない。存在すべきは最適な親なんだ、と思います。

チェックリスト 今そこにある安全網(3)

前回の続きです。

この本にADHDに関する直接の言及はありませんが、今回はADHDとチェックリストの話です。

先日、とあるきっかけでADHDの方の話を聞く機会がありました。その方は大学院を出て某会社に就職後、2年ほどで退職。その退職前後にADHDと診断され、障害者手帳をもらい、今は2番目の会社で働いておられます。

で、その方は、まず1日の業務を開始する際、必ず「今日やることリスト」を作成します。だいたい1日3項目以内におさめて、絶対に増やしません。仕事が回らなくなるからです。職場の方は当然彼がADHDだということは知っているので、しかるべき配慮はしているのですが、それでも1日の業務の中で頼みごとが出てきます。その場合は、必ず「これからリスト」のようなものにメモを取って、頼まれたことを忘れないようにしているそうです。

この話を聞いてなるほどなぁ、と思ったことが二つありました。

一つは「今日やることリスト」です。これはまさにチェックリストです。チェックリストというのは、項目が限定されています。この本にはチェックリスト作成のためのチェックリスト、というのがあるのですが(英語版が公開されています)、そこには「一つの一時停止点でチェックするのは9項目以下」と明記されています。これだけやったら今日は終わり、と明記されていることは、大きな安心感に繋がります。これが項目が限定されていなければ、安心はできません。チェックリストが安全網たるゆえんの一つです。

もう一つは「これからリスト」です。これは項目が限定されませんので「チェックリスト」ではありません。際限なく増える可能性はあります。ただし、これは頼まれたことを忘れないためのリストです。必ずしも自分が全部やると決めたわけではありません。また、ここにリスト化することによって、逆に一旦忘れることができるのです。これは特にADHDの方にとって重要です。

つまり、何かを頼まれている、あるいはやらねばならないことが頭の中に残ったままだと、それだけで頭の中がとっちらかる可能性が飛躍的に増大する。だからこの方の仰ることはとてもよく分かる、と(軽度のADHDである)妻が指摘します。特に今の時期(年末)はやるべきことがいっぱい頭の中にあり、それが日常生活を阻害するのだ。なんとかならないのか?と思っていた。では、まずは書き出してみたら?となりました。

この時期、妻の頭を悩ませる大きな家族行事が二つあります。一つは年賀状、一つが年末年始の帰省です。ともに準備にかなりの作業を要する大きなプロジェクトです。まずはそれぞれを細かい作業に分解し、これらを週ごとに割り当てていきます。つまり、頭の中をある程度可視化しただけでなく「今週やることリスト」まで作ったのです。これを作ることで、ある程度は不安な気分がおさまったと妻が言っていました。

これさえやれば今週は終わりであって、それから先はやらなくていい、という安心感。これが特にADHDの方には大切なような気がします。思いついたらすぐやらないと気が済まない、という傾向があるように思えるからです。今やらなくていいことをやらずに済む、もうひとつの安全網が、ここにあります。

この項、続きます。

「拠って立つ処」のためのメインテナンス(3)

前回の続きです。

ストレスと適応障害 つらい時期を乗り越える技術 (幻冬舎新書)
岡田 尊司
幻冬舎
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前回、ハマってしまったストレスからの脱却法として、受動的コーピングと、能動的コーピングがある、と申し上げました。今回は、後者。

能動的コーピングは、実際に行動を起こし、原因となっていることや周囲に働きかけることによって問題を解決し、ストレスを減らそうとする。自分の主張や考えをはっきり伝えることも大切な能動的コーピングであるし、人に相談したり専門家に助けを求めることも能動的コーピングの方法である。

能動的コーピングはこの本の最後の章で述べられていますが、私が印象に残ったのは「まず、言葉ありき」。

人が変化するとき、それに先立って変化しようとする意思を語るようになるということだ。言葉が変わると、行動も変わる。依存症とか引きこもりの人たちの治療をしていると、このことがよくわかる。

これは私自身の経験からも大いに賛同できる点です。妻が不調から回復するときには、必ずと言っていいほど「○○したい」という言葉が出てきます。言っている時点では不調が継続しているにも関わらず、です。私はこれまで1年以上ブログをやっている最中にも精神的にきつい時期がいくつかありましたが、「ブログを書きたい」と思ったらその不調の原因が消えたりもしました。

ただ、単に待っているだけでは変化を示す言葉は出てきません。やはり何らかの「きっかけ」が必要です。何かのイベント、気候の変化(暖かくなる)、生活環境の変化(子供が何か新しいことを始めたり、家族が緊急的なサポートをやったり)といったものです。

そのきっかけとの一つして筆者が指摘しているのが「仮定の質問」です。何らかの困難な点がもし消え去ったと仮定して、何がしたいですか? あるいは、何らかの困難な点がもし消え去ったとしたら、何が変わったからだと思いますか? と聞いてみて、そこを糸口にする方法です。

これはストレスからの脱却「前」に行うものとして述べられており、ハマれば非常に効果的かと思いますが、私の経験から申し上げると、脱却「後」に聞いてみるのも効果的なのではないかと思います。体調悪化の時期を何とかやり過ごした後に「何が変わったと思う?」と聞いてみるのです。もちろん回答は一つではなく、いくつか出てくるでしょう。

私も妻も、体調が良くなったり悪くなったりを繰り返すので、その時に自分が話した言葉を一部でも覚えていてくれれば、次の体調悪化時に役に立つかもしれない。回復したら「ああ良かった」で終わるのではない。振り返って、何が起こったかを自分の言葉で言ってみる。メモしたりすればなお効果的かもしれませんが、まず言葉で表現することで、メモをしなくても自分の脳に何らかのインプットが残るような気がします。

ささいな言葉の変化をとらえ、より良い方向に持って行く。そのためにはやはり日頃の感度を高めるメインテナンスが重要なのかもしれません。毎日何かをメモして日記に書きつける、というのも有効でしょう。でも、そう簡単にはできない。無理する必要もない。ただ、どこかにそんなメモを書き付けるスペースを物理的にも精神的にも持っておくだけで、何かが良い方向に変わるような気がします。

「拠って立つ処」のためのメインテナンス(2)

前回の続きです。

ストレスと適応障害 つらい時期を乗り越える技術 (幻冬舎新書)
岡田 尊司
幻冬舎
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この本では適応障害を深刻化させないための方策が、具体的な例とともに書かれています。学校、職場といった場面別でも説明されています。

ところが、どうやってもストレス発生を防げない場合がある。一番分かりやすい例が、子育てそのものが適応障害の要因となる場合です。学校や職場と違って家族をやめるわけにはいかない。拠って立つ処が少なくなることが避けられない。

では、どうすればいいのか?

この本では最後の2章を使って、はまってしまったストレスから脱出するための方策のさわりが書かれています。「受動的なコーピング」「能動的なコーピング」に1章ずつをさいています。

受動的なコーピングとは、何かストレスになることがあったときに<略>その出来事の受け止め方(認知)を適切なものにすることでストレスを減らそうとするものである。受動的なコーピングの身近な例としては、聞き流すとか、気にしないようにするといったものだ。

この受動的コーピングのひとつの手として、自分に自信を持って、人の言うことは気にするな、と筆者は指摘します。

自分が最善と信じる行動をとるためには、日頃から自分で判断し、行動する習慣をつける必要がある。つまり、周囲の評価や結果ばかりに左右されない生き方をすることになる。それは、心が折れることから自分を守ることだけでなく、自分らしい本来の生き方にもつながるのだ。

ここでも、メインテナンスです。日々、自分自身を見つめ直す。そして、私はこれを読んで、ネットを見すぎるな、と解釈しました。自分に自信がなくなるのは、単純に入ってくる情報が多すぎるからではないか、という気がします。知らなきゃヘンな考えを起こさずに済むのに。それにネットばかり気にしていては、自分自身をメンテする時間が取られてしまう。

ただ、そうはいっても子育ては難しいと思います。自分に自信がないので満足に子供に接することができない。そして子供からは不満のフィードバックが山のように来る。この悪循環をどう断ち切ればいいのか?

ここで思い出したのが、「救命用具」です。緊急時の救命用具は、まず大人がつけてから子供がつける、というのを聞いたことがあります。大人の安全が確保できないまま子供に救命用具をつけようとしてうまくいかずに共倒れになるリスクを回避するためです。
そのような救命用具、あるいは脱出手段を常に確保し、メインテナンスを忘れないようにすることが、最悪の手段を防ぐ第一歩のような気がします。

そして、もう一つ大事なことは、完璧主義にハマらないこと。

実際に完璧主義な人は、適応障害を起こしたり、うつになりやすい。百点を目指していると九十点でも、不満足な結果でしかない。<略>百点ではなく五十点で満足する。みんなから評価されることを期待するより、自分を評価する人もいれば、評価しない人もいて当然だと思う。

やはり適応障害は真面目な人がなりやすい、ということがわかります。サボりたい人が完璧主義なはずがないからです。例えば、ちゃんとした食事を用意したいのに、体が動かない。そこを無理してなんとかやろうとする。私の妻が何度もハマってしまう状態です。頭の中ではやりたいのに、体は(おそらく心も)拒絶している。

もともと私は妻の食事の質に注文をつけたことは一切ありません。しんどいことは、一目見ればわかる。私だけでなく、子供もわかっている。何もわからない乳児ならともかく、4歳位にもなれば「おかあさん、だいじょうぶ?」ぐらいのことは言えます。これは危険信号です。ただちに「救命用具」が必要な状態といえるでしょう。

この項、続きます(次回で最後です)。