子育ての人のMP戦略?(1)

最近、この連載を楽しみに読んでいます。

「働く人のMP戦略」
https://note.mu/nokiba/m/m3221b02820a1
連載の最初に、このような問題提起がなされています。

そもそも時間がたくさんあれば、やりたいことが思うようにやれるというのは本当なのでしょうか?
時間があってもやれないのは、意志力が弱いせいなのでしょうか?
そうではないのではないか。

私も妻も別の意味で「やりたいことができない」という感覚があります。子育てをしていると「時間がある」という感覚自体を持つことができません。たとえば、GWのように多くの時間が与えられたとき「自分がなにをやるか?」の前に「子供たちになにをやらせるべきか?」という問題が立ちはだかります。これを考えているうちにGWそのものが到来してしまい、実際GW中に自分自身にフッと自由時間ができたとしても、どう使うかまで頭が回らなくなって、やりたいことが思うようにやれない。

これは、意志力の問題ではないような気がするのです。以前申し上げたように、今や「核家族」という形態そのものが無理ゲーとも思われる状況下で、そこを突破する何らかの戦略が必要な気がします。

そこで、実際的な解決策の一つとして、そもそもやりたいことを絞る、ということを考えました。つまり「今日は○○をやる。時間が余ったらダラダラしてオッケー。以上!」と考えるわけです。

今の時期は、我が家にとっては「模様替え」の季節です。学校や習い事の変化に伴って子供たちの家内動線が微妙に変化し、それに従って家具の増減、配置換えを行います。しかし、模様替えは、重労働です。事前に作業手順や時間配分を考えていないと、大変なことになります。最悪、仕掛かり中の不安定なダイニングテーブルで夕食をかき込むことになりかねない。これは避けなければなりません。

そこで、二つの対応策を考えました。まず、模様替え作業の分割です。どう考えても1日でできないので、3〜4回ぐらいに分けることにしました。もう一つは、模様替え作業は日曜日に実施し、前日の土曜日は徹底して休む、ということです。そもそも新学期がスタートしたばかりで、家族全員ウィークデーの対応だけで気力を使い果たしてしまっているわけです。特に妻はこの傾向が顕著です。なので、まずは気力の回復を図らないと、作業もなにもない。

そしてもう一つは、決して無理をしないこと。つまり「時間が余ったらダラダラしてオッケー」という感覚を持つことが大切なような気がします。つい時間が余った時点で「なにをしようか?」とあれこれ考えがちです。なにかしないともったいないと思ってしまう。特に気が散りやすいADHD傾向の方は、これが出やすい。そこで「はい、今日はおしまーい!まずは休憩!後のミッションは早めに食べて早めに寝ること、以上!」と言い切ることが大事なような気がします。

この項、続きます。

クエストを楽しむこと、ログを生かすこと

正月早々、楽しい偶然でした。ありがとうございます。

やる気クエスト(1) (純コミックス)
岡野純 (2015-12-12)
売り上げランキング: 514

元旦に発信された「のきばトーク」を1月2日の早朝に拝聴。たまたまその中でこの本の24時間限定0円セールをやっているのを知って即購入。kindleで漫画を読むのは、私にとってこれが初めてでした。普段文字だらけのノンフィクションを主に読む私にとって、ファンタジー仕立ての心理学/ライフハック系漫画というのは新鮮でした。

漫画と言っても、書いてあることは極めて真剣。例えば、ある登場人物が語るこの一節

ジュン、お前も気づいたとおり「緊急事態」になればやる気は与えられる
しかしデシのようにいつも自信がなく不安を抱え込みがちな人間は、いわば「常に緊急事態」なんだ
つまりデシの中には常時やる気が放出され続けている
だがその多すぎるやる気をどう使えばいいかわからない…

この「デシ」は、私の妻そのままです。ADHD気味だと自身で語る、私の妻に。そのデシがどう危機を乗り越えたのかは、もちろん本文に書いてあるのですが、ここでは私の妻の話を。

妻は最近カレンダーを持ち歩いています。そのカレンダーにはいくつかの工夫が施されています。A4の紙1枚に向こう4か月分のカレンダーを印刷し(元ネタはこれ)今後の予定を手で書き込んで携帯性と一覧性を重視。さらに感心したのは、前年の同時期に何が起こったかが書いてある、ということです。特に体調の変化について。

昨年のこの時期に、これこれが悪化した。私も気をつけるから、あなたも協力してこれこれを手伝って、と事前に警告を発し、文字通りの緊急事態を回避することが可能になるわけです。そして、実際この冬の妻の平均的な体調は、(今のところ)前年比で間違いなく良くなっています。過去の記録(ログ)をつけるだけでなく、それを生かすことの大切さを感じました。

あと、このシリーズの最後に「笑う」というキーワードが出てきます。私が前回のエントリーの最後に書いた一文が、まさか「やる気」つながるとは思いもしませんでした。正直あまり深く考えずに書いたのですが、改めて考えてみれば大切なことかもしれません。今の状況で笑えるということが。そして「クエスト」仕立てにして楽しむということが。

この本で紹介されるタスクシュートを使うかどうかはわかりませんが(すみません)、今年は「クエスト」を楽しむと同時に、「記録(ログ)」をつけること、それを生かすことの大切さを考えながら過ごしてみたいと思います。

今年もよろしくお願いいたします。

見えないものは、「ない」もの?

先日、前回の記事を取り上げてくださったとあるメルマガの前説(ここで読めます)に対して、こういうことを書きました。

それに関する話を一つ。

妻は軽度のADHDを自覚し、その最大の特徴の一つである「モノを片付けられないこと」がバッチリ当てはまります。結婚するはるか前から、片付けは苦手だそうです。で、聞いてみました。なぜ片付けられないのか?すると、意外な答えが返ってきました。

モノが自分の視界から消えると「ない」ものと認識されるから、というのです。

例えば、中身が見えない引き出しにあるものを片付けると、途端に自分がどこにしまったか忘れてしまう。だから、視界に入っていないと忘れるのが怖いのだ。引っ張り出すのが面倒なのだ。もっとも視界にあっても存在を認識できないことはあるようですが、これは私もままあること。

さて、ある程度片付けができる人が、引き出しにしまって見えなくなったモノを思い出すのに、どうしているでしょうか?なんらかのメモなり、頭の中の記憶なり、要は現物を思い出すためのトリガーがあるはずです。

そのトリガーがある一つの「場所」に全て集約されていれば、そこだけを見ればいいのですが、大抵何箇所かに分散されているはずです。また仮にある一つの「場所」に全て集約されていたとしても、容易に全項目をブラウズできる状態にあった方がいいでしょう。そんなシステムをわざわざ作るぐらいなら、目の前に現物がちらかってる方がマシ、という考えは(見た目はともかく)一理あります。

解決策としては、例えば引き出し自体に何が入っているかを書いておくとか、引き出し全体の一覧表を作っておく、といった方法が考えられます。妻の引き出しでは見栄えの問題等もありあまりやっていないようですが、子供のおもちゃ等を収めた棚についてはこれらの方法を実行し、それなりに効果が上がっているようです。

つまり、普段は思い出すためのトリガーだけが常に見えていて、いざという時には全項目がすぐに見られるもの。これは、WorkFlowyのようなアウトライナー(定義はこちら(takさんのブログ)がわかりやすいかと)だったらできるかもしれません。しかもWorkFlowyはファイルの概念がないので、探す手間が一段階省けます(これは意外に大きいような気がします)。

そうか、WorkFlowyは思考ツールである、だけではなく「片付けられない」人にとって最適な情報管理ツールかもしれない、とこの本を読みながら思い至りました。

クラウド時代の思考ツールWorkFlowy入門 (OnDeck Books(NextPublishing))
インプレスR&D (2016-01-29)
売り上げランキング: 57,522

この「情報管理」はタスク管理も含まれるかもしれませんね。

自己肯定感と承認欲求の間

これを読んで、ハッと思いました。
なんで私のブログはこんなに淡白なのか、ようやく気づきました。

自己肯定感の高い旦那と、私の違いを比較表にしてみた:ひびわれたまご

このブログは「ADHD当事者ママ」の志乃さんが、いろんな意味で正反対の旦那さんと比較されています。私は明らかに「旦那さん」寄りです。私はそんなに自己肯定感が強いわけではないとは思っていますが、(軽度のADHDを自覚している)妻に比べれば、確かにある方です。

で、この比較の後で、志乃さんがズバリと指摘されます。

旦那は「自分は自分である。」と、自分の中で完結しているので、承認欲求や自己顕示欲が低く、それに伴い「他人に気持ちを伝えようとする意欲」が私に比べて低いのが分かります。

はい、その通りです。と言っているような私が、ブログを書いていてはいけませんね。なんで私のような境遇の人のブログが少ないのか、ADHDの方と向き合う一方で性格がADHDと真逆な方のブログがあまり多くないのか、この辺りに原因があるのかもしれません。

この記事で一番気になった言葉が「自他の境界線」でした。自己肯定感と他人への承認欲求の間にあるのか、この境界線のような気がします。

かなり以前、「自分は自分」との思いから、自分の「城」を作るためのブログを書きたい、もっと具体的に言えば情報管理やタスク管理に特化したブログを書きたい、と思ったことが一時期ありました。今もその方面のブログはよく読みますし、時々そういった記事をここで書くのはそのためです。

ただ、広い意味でのライフハック系の分野は、多くの読者を持つブログがたくさんあり、間違いなくレッドオーシャンです。そういう分野でやっていくためには、単なる自己顕示欲の問題ではなく、周囲に流されず自分を強く律することが必要で、そんなことができるか?と思っているうちに興味の対象が変わっていきました。

今、このようなブログを書いているのは、「自分は自分」と思いつつも、ニッチなところで何か人様に少しでも役立つかもしれない、とも思っているからです。強くはないとはいえ、確かに承認欲求はあります。

一方妻は、まさに自他の境界線が弱く「他人事とは思えない」性格です。ワンオペで苦しむ子育てママを応援したいという気持ちが、とても強い。強すぎて足元の我が家のチェックがおろそかになって、こちらがストップをかけなくてはならないことがままあるのですが、ある面ではとてもいいことだと思います。

その妻が「生活が落ち着くと、Twitterでつぶやく頻度が減る」と言ったことがあります。これは、先述のエントリーの続編で志乃さんが言及されていた事実とも関係します。ある意味表裏一体なのでしょう。

これから先も良好な夫婦関係を築いていくために、私がいま大切にするべきことは、「違い」を魅力として、磨いていくことかもしれない。

この指摘はとても大切だと思います。一方で、夫婦生活を続けるうちに、真反対であるお互いの性格を理解するだけでなく、自分の性格が少しずつお互いに近づいていく、ということも目の当たりにしています。それが夫婦生活の妙の一つかもしれません。

追記
人気ブロガーの方が、みんな自己肯定感が弱いということはないとは思います。そのような問題とは別に、ブログに対する強い情熱というのは、間違いなく必要な条件なのだと思います。

立ち止まり、省みる(2)

前回の続きです

マジメすぎて、苦しい人たち―私も、適応障害かもしれない…
松崎 博光
WAVE出版
売り上げランキング: 28,623

先日、妻にこう言われました。
今の生活は、達成感を実感しにくい。だからストレスがたまる。
結構重い一言でした。

妻は、専業主婦です。「あなたは仕事をしているから、達成感や自己実現を味わうことができるけど、私にはこれがない。仕事に戻りたいのは山々だけど、こんな体調で、こんな環境で戻れるわけがない」妻は、こう言います。たしかに、そんな大きなことをしているわけではありませんが、今の仕事に達成感がないといえば嘘になります。

一方、家事育児には明確な「ゴール」というものが存在しない(大学に入れること自体が育児の目的か?と言われるとちょっと違う気もします)ので、達成感や自己実現を感じずらい。これもわかります。私自身も何か徒労感を感じていたのは、この辺りに関係するのかもしれません。

こういった場合、どうすればいいのか?満たされない感の対象は「当面の暮らし全体」のような気がします。だとしたら、そのスコープを細分化するか、あるいは思いっきり俯瞰するか、ということが考えられます。前者は、よく言われる「タスクの細分化」です。細かいタスクの成功を通して、小さな達成感を積み重ねる。では、後者は?

私はいつも患者さんに「人生はマラソンだ」ということを言っています。観客に声援を送られ、激励されたからといってスピードを上げ、途中で脱落してしまうよりは、マイペースで最後まで完走できる方がいい。

そう、人生全体。最後にどうなるか、という視点。これは日々の生活に追われている多くの人々(もちろん私を含む)にとってなかなか持ちにくい視点です。でも、とても大切です。

もう一つは、自分のペースを忘れないこと。今回の大ピンチの要因は、まさに私が自分のペースを忘れて変なところでダッシュしてしまったことにほかなりません。

しかし、今回ひどい目にあったことは、悪いことではない。今までやってきたことがオーバーペースだということが、明確に認識できたから。

適応障害になったということは、努力や忍耐、社会的適応だけではない、ほかの価値に気づいて生きていくためのターニングポイントが訪れたということかもしれません。
「新しい自分、新しい生き方を見つけるチャンスになった」と考えれば、適応障害を起こしたことは、むしろ今後の人生にとってのプラスポイントになっていきます。

この視点は、こういう心境になって初めて実感しました。やはり、ターニングポイントだったのでしょう。いきなり何かが変わるわけではない。しかし、視野が変わることはこの先とてもジワジワ効いてくるような気がします。

立ち止まり、省みる(1)

自分を省みて、これはまずい、と思いました。
その時、妻の本棚にあったこの本が、ふと目に止まりました。

マジメすぎて、苦しい人たち―私も、適応障害かもしれない…
松崎 博光
WAVE出版
売り上げランキング: 28,623

この本には「適応障害」の具体的な症状の説明、治療法、そして適応障害にかかりにくくするための対処法といったことが書かれています。私は、この本の定義によれば、まだ適応障害ではありませんが、一歩手前の状態。そこで、この本に書かれている「対処法」の部分がとても参考になりました。

ところで、前回のエントリーで「決断した」と書きましたが、まずは、自分に関する「やりたいこと」を削減しました。感覚的にですが、今回はかなりバッサリ切りました。効果が現れるのはこれからであり、いきなり何かが劇的に変わったわけではありませんが。

自分の「やりたいこと」の見直しは以前にもやったことがあります。ただ、今回初めてやったのは、同時に妻にも「やりたいこと」を減らすよう要請したことです。

妻はADHDの傾向があり(正式な医師の診断は受けていませんが)放っておくとすぐに「やりたいこと」を増やす傾向にあります。それが自分で全部できればいいのですが、たいていできないため、それが家事育児の「やるべきこと」に影響する。そして、それをフォローする私の精神が崩壊し始めたのです。すでに妻がなっていると思われる適応障害に、私自身もなってしまいかねない、と気づきました。

平日でも仕事と家事育児に全力投球している私が、いくら子供がいるからといって、土日に全く休めないのは、どう考えてもおかしい。いろいろなことを根本的に変える必要がありました。具体的な「リスト」だけでなく、考え方を、フレームワークそのものを変える必要がありました。そのためのキーワードが、この本に書いてありました。

適応障害を克服するには、それを起こす環境に適応しないことが一番です。「適応障害にならないためにはどうしたらいいですか?」「無理に適応しないことです」こんな禅問答のようなことが問題を解決する有効策です。

私の場合、これ以上無理に適応しない、ということは、妻に対して「ごめん、これ以上(のサポート)は無理」と宣言することを意味しました。これは正直きつい。妻のtodoを増やす可能性をはらんでいるからです。でも言わなければなりませんでした。これをしないと、私のサポートが急にゼロになって、明確に妻への負担が増えてしまいます。

もう一つ、キーワードというより、反省すべきことがありました。それは、私が「自立」の意味を完全に取り違えていたこと。

自立というのは、誰にも何にも寄りかからず、ということではなく、寄りかかったり寄りかかられたりしながら自分の足で立って考え、動けることを言いますが、自立した生活こそがストレス弾を防ぐ盾になってくれます。

そうでした。私は明らかに適応障害にハマっている妻に寄りかかることは、よくないことだ、と思っていました。私がマジメすぎるのかどうかは、正直よくわかりません。ただ、明らかにマジメになるべき方向性が間違っていたのかもしれません。

この項、続きます。

我に返ること、我に帰ること

この夏に、一つの大きな決断を下しました。

前回のエントリ時では、個人的にいろいろ苦しい状況下にありました。というより、長い期間少しづつ積み重なってきたストレスの大きさに気づいてハッと我に返り「これは大変だ!」とある日突然実感した、といった方がいいかもしれません。

思えば、いろいろ抱え込んでいました。家族のこと、コミュニティのこと、仕事のこと。仕事のことは以前から意識して抱え込みすぎないようにしていたのでいいのですが、特に家族のことを抱え込む負担が増大していた、と今にして思います。

ただ「適正量」がわからなかった。これは3つの意味があります。

1、自分にとって深刻な負担にならない量
2、家族に深刻な負担が発生しないように、自分が抱え込む量
3、世間的に見て「これぐらいはやらんといかんでしょう」と思われる量

3、はおそらくクリアしていると思います(確たる自信はないのですが)。問題は1、と2、のかねあいです。妻の適応障害をフォローすべく2、のレベルを高く見積もっていました。すると、いつの間にか1、を超えていたのです。

また、家族の動きと某コミュニティの動きが密接に関わっているという特殊な事情もあり、コミュニティを含む多方面に向けて「もういい加減にしてくれ」と叫ばざるをえない状況になってしまいました。

いい加減にしてくれ、はわかった。じゃあ、これからどうするんだ?と思ったときに、このブログが、後押ししてくれました。

〈混ぜるな危険〉R-Style

これは、決定論・運命論でもなく、かといって自己が世界を支配するという話でもありません。どちらかと言えば、その領域を〈行ったり来たり〉するものなのでしょう。
自分のリストを作ること。それはつまり、他人のリストを混ぜないことです。
自分の人生を生きていくために、これ以上必要なことはないでしょう。

上記の1、と2、の間でtodoが混ざる。しかし、1、の限界を超えると自分が崩壊し、いきなり2、がゼロになる。これが家族にとっていいはずがありません。だから改めて自分のリストの確立すること、つまり「我に帰る」ことが必要だ、と感じました。

妻がよく言います。体調がきついから、代わりにやってくれ。これは、今までの私にとってほとんど「命令」でした。自分自身の体調や気分に関係なく、無条件かつ最優先に行うべきものでした。妻がどう思っていたかわかりませんが、結果としてそうなっていた。

しかし、申し訳ないけど、今後はもう無条件かつ最優先ではない。妻の負担を増やさず、私の負担も(大きくは)増やさず、かつ家がなんとか回る方策が最優先である。そのために、家のルールを変え、私の「リスト」を変える決断を下しました。

まずは自分のリストを整えること。これがシンプルに自分の人生を生きていく第一歩かもしれません。

休養という名のタスク

夏休み。
子供たちの世話が一層大変になるこの時期に、逆に「休もう」という話で恐縮ですが…

残念な人類のためのタスク・スケジュール管理術:発達障害就労日誌

先日twitterで取り上げた方のブログです。この方自身がADHDで、読者もADHDの方を想定されたものですが、ADHDに向き合う人、私を含めADHDの方のタスク構築に向き合う人にとっても、非常に参考になります。このエントリで最も強調しているのは、

まっさらの手帳、あるいはインストールしたばかりのアプリに最初に記入するべきは、「最も重要で」「最も実行の容易な」タスクなんですよ。これを軸にして予定を立てるべきなんです。はい、具体的にそのタスクとは何か。休養です。何もしないというタスクです。

私もよく妻に言います。まず、あなたが休む日を取って、と。ところが妻はこれを実行しません。それには、いくつか理由が考えられます。

まず、妻が専業主婦であり、働いている私よりも時間の自由がきく、ということ。これは普通の専業主婦ならその通りですが、妻は普通の専業主婦ではありません。すぐに頭の中が混乱し、子供達を学校に行かせるタスクを終えた時点でかなりの気力体力を消耗し、かつ最低週1回はなんらかの通院が必要です。あっという間に時間が過ぎる。一見平日は容易に「休養」が取れそうなのに、結果的にできない。そして、常に子供がいる休日は言わずもがな。

もう一つは「私よりもあなたの方が大変だから先に(休みを)取って」。日本人の美徳、「譲り合い」の精神です。あの東日本大震災で被災された方が「もっと大変な方がおられる」と静かにおっしゃっていた光景を何度も目にしました。これはこれで(エゴ丸出しよりも)とても素晴らしいことなのですが、これが過ぎると、逆に「物事が進まない」という弊害が発生しかねません。そこで、そう言われたら、私は遠慮なく休むことにしています。でないと、妻が休まないからです。

人間は休日が大好きなくせに、いざスケジューリングをする段になるとそれを一番おろそかにします。しかし、このガンガンスマホが鳴りメールが届きラインがピンピンいう時代に、「休養を取る」というのは立派なタスクです。そこには明文化された意思の力が必要です。

そう、意志の力。「休養」というタスクは、実行は容易なのに、設定はとても困難です。特にやりたいことがいっぱいあるのに、そのやりたいことを押しのけて空白の時間を設定するということは、ADHDでなくても、実はとても勇気がいることなのでしょう。

そういう私も「休養」は滅多に取れません。家は休息の場所ではなく、常に家事育児に追われる「戦場」です。子供に対して、あれやれこれやれ、と言っている一方で、こちらが何もしないと「何サボってるの?」と言われかねない。だから子持ちの親御さんはなおのこと「休養」が取りづらい。これは本当に実感しています。

ただ「休養」というタスクは、「できるときにやっておかないと、いつまでたってもできない」という感覚に対する抵抗ではない。むしろ逆で、「休養」を意図的に設定することで実行可能な時間が制限され、本当にやりたいことが無意識にしろ選別される。

「子供に対してできる限りのことをしてあげたい」という思考に対する裏切りでなく、最終的には家族全員の心の平静という最も高い価値を産むもの。「休養」というタスクは、「サボる」というネガティブな感覚とは逆に、Quality of Lifeを高める近道の一つなのかもしれません。

「余裕」がわからない社会、「違い」がわからない社会(2)

前回の続きですが、単にこういう社会はダメだ!という批判しているわけではありません。そもそも自分自身も今の社会を作り上げた一人ですから、反省の意味も込めて書いています。

ところで、前回

「誰それができたのだから誰でもできるはず」と思う人が多い社会

と申し上げました。これは「あなたは、私とは違う」、つまり「違い」の認識ができにくい社会である、とも言えます。「違い」の認識ができにくい、というのは、一つには日本がほぼ単一民族だから、というのもあるのでしょうが、それよりも、ただ単に「違い」を受け入れることのできる「余裕」がないからではないか、と思っています。

また、こんな社会になってしまったのは、社会を構成する人の大半が「余裕」のある社会そのものを経験していないのも原因のひとつではないか、と思っています。戦後の混乱、高度成長期、そしてバブル。「右肩あがり」ではあるが、しんどいのが当たり前と思っている。しんどくないのは罪とさえ思っている、とは言い過ぎでしょうか。もちろん、すべての責任を、そういうことを経験してきた年長者に押し付けるわけではありません。

そう、追い詰めないこと。単に余裕がないだけなら、わざわざ追い詰める必要がない。そんなことする時間があるなら、休んで気力体力の回復に当てればいいのに、わざわざやってしまう。これは「違い」に対する本能的な拒否反応から来ているような気がします。

自分とは異質のものなり人なりがいきなり目の前に現れると、本能的に防御の姿勢を取る。これはしょうがない。逆に言えば、異質のものに対する「慣れ」があれば、そうはならない。で、この「慣れ」は誰かから与えられるものではなく、自分で獲得しなければならない。もちろん幼少時には親がその環境を整えてあげた方がいいでしょうけど、ある程度歳をとれば、そうもいかない。「慣れ」は統一的な規格ではなく、個々人が持つ距離感のようなものだからです。

一方で、「慣れ」の獲得は相互作用ですから、「異質」側の行為も問われる。攻撃されれば怖い、という気持ちはもちろんわかるのですが、ひたすら隠すだけでは「慣れ」てもらえるわけがない。その意味で、今回のNスペのような、発達障害の当事者側からの積極的な発信は必要であり、とても勇気のある行動だと思います。こんな番組普通の人はわざわざ見ないよ、という声も多々あるようですが、それでも地道に繰り返すことでしか「慣れ」は獲得できない。

異質であることを、隠すのではなくさらけ出し、ある種当たり前として認知できる社会。それは、特にこの日本では、誰でもメディアになれる時代だからこそ近づいているのかもしれません。

「余裕」がわからない社会、「違い」がわからない社会(1)

先日のこの番組の影響で、私のTwitterのタイムラインが沸騰しました。

NHKスペシャル|発達障害 ~解明される未知の世界~

私のフォロー先(発達障害の当事者も少なからずいます)の評価は、概ね好意的に見えました。たしかに突っ込みどころはあるけど、まずはこういう番組がNHKスペシャルとして製作されて、不特定多数が見た、という事実だけでも大きな前進。私も、発達障害の当事者ではありませんが、同意見です。

そういった議論の一方で、いろいろ考えがタイムラインを流れていったのですが、その中で一番感銘を受けたのが、これでした。

これは、軽度のADHDである妻を毎日見ており、以前適応障害に関するエントリーを書いた私にとって、とても重要な指摘です。極言すれば、どれだけ脳機能に障害があっても、社会と折り合いをつけることができれば「生きづらさ」は感じず、あまり不幸にも思わない(そういうフリをしているだけ、であれば別)。

ところがADHDの程度が軽くても、ママ友との付き合いがきついとか、自分の頭の中がどうやってもまとまらなくて生活していくのに苦労する、という状況であれば、医師の正式な診断があろうがなかろうが、対処が必要な問題です。その生活は当然「社会」と密接に関係していて、社会とどう向き合うか、という問題に帰結します。

テクノロジーの発達等により人々が受け入れることのできる「総量」はたしかに以前より増えたけれど、社会が求める「総量」の増加は、それを上回っているような気がします。特に「誰それができたのだから誰でもできるはず」と思う人が多い社会では、これが顕著に出る。

自分たちで勝手にレベルを上げて、自分や他人の首を絞めにかかる。これはさすがにヤバい、と関係者一同が実感してやっと変わった典型例が、ヤマト運輸の昨今の対応だったような気がします。最低週に1回はヤマトさんや佐川さんのお世話になっている私にとっても、身近な、そして反省すべき事例でした。

社会の個々人が生活の質を上げようとして、社会に対して求める「総量」が大きくなると、シンプルに考えれば、社会の人口が増えない限り、逆に社会の構成員でもある個々人の余裕がなくなっていきます。そうすると、今までなんとか折り合いをつけることができた人がドロップアウトを余儀なくされる。これはどう考えても本末転倒です。

もちろん、質を下げて昔に戻れ、と言いたいのではありません。ただ、やはり色々な理由で、私たちは社会に対して何かを求め過ぎていたのだろう、という気がします。新たなテクノロジーが生まれて、それを試しに使ってみて、それを生活の質の向上の糧にするのはいいとしても、そこで達成された新たなレベルを、ありがたいものではなく「当然のもの」として認識された時、社会が少しずつおかしくなっていくような気がします。

この項、続きます。