子育ての人のMP戦略?(1)

最近、この連載を楽しみに読んでいます。

「働く人のMP戦略」
https://note.mu/nokiba/m/m3221b02820a1
連載の最初に、このような問題提起がなされています。

そもそも時間がたくさんあれば、やりたいことが思うようにやれるというのは本当なのでしょうか?
時間があってもやれないのは、意志力が弱いせいなのでしょうか?
そうではないのではないか。

私も妻も別の意味で「やりたいことができない」という感覚があります。子育てをしていると「時間がある」という感覚自体を持つことができません。たとえば、GWのように多くの時間が与えられたとき「自分がなにをやるか?」の前に「子供たちになにをやらせるべきか?」という問題が立ちはだかります。これを考えているうちにGWそのものが到来してしまい、実際GW中に自分自身にフッと自由時間ができたとしても、どう使うかまで頭が回らなくなって、やりたいことが思うようにやれない。

これは、意志力の問題ではないような気がするのです。以前申し上げたように、今や「核家族」という形態そのものが無理ゲーとも思われる状況下で、そこを突破する何らかの戦略が必要な気がします。

そこで、実際的な解決策の一つとして、そもそもやりたいことを絞る、ということを考えました。つまり「今日は○○をやる。時間が余ったらダラダラしてオッケー。以上!」と考えるわけです。

今の時期は、我が家にとっては「模様替え」の季節です。学校や習い事の変化に伴って子供たちの家内動線が微妙に変化し、それに従って家具の増減、配置換えを行います。しかし、模様替えは、重労働です。事前に作業手順や時間配分を考えていないと、大変なことになります。最悪、仕掛かり中の不安定なダイニングテーブルで夕食をかき込むことになりかねない。これは避けなければなりません。

そこで、二つの対応策を考えました。まず、模様替え作業の分割です。どう考えても1日でできないので、3〜4回ぐらいに分けることにしました。もう一つは、模様替え作業は日曜日に実施し、前日の土曜日は徹底して休む、ということです。そもそも新学期がスタートしたばかりで、家族全員ウィークデーの対応だけで気力を使い果たしてしまっているわけです。特に妻はこの傾向が顕著です。なので、まずは気力の回復を図らないと、作業もなにもない。

そしてもう一つは、決して無理をしないこと。つまり「時間が余ったらダラダラしてオッケー」という感覚を持つことが大切なような気がします。つい時間が余った時点で「なにをしようか?」とあれこれ考えがちです。なにかしないともったいないと思ってしまう。特に気が散りやすいADHD傾向の方は、これが出やすい。そこで「はい、今日はおしまーい!まずは休憩!後のミッションは早めに食べて早めに寝ること、以上!」と言い切ることが大事なような気がします。

この項、続きます。

うまくいかなくなる、その時に(2)

前回の続きです

HARD THINGS 答えがない難問と困難にきみはどう立ち向かうか
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前回子育て家族の運営とスタートアップの会社の運営は似ている、ということを書きました。違うところもあるように思います。一つは「なにがなんでもライバルに打ち勝たなければならない」というプレッシャーを負う必要がないこと、もうひとつは、そう簡単に「清算」はできないことです。

実際には逆のことがよく起こります。すでに自分の子供のクラスメートは塾に通い始め、そこでは毎週のテストの成績が張り出され、それによってクラス替えや席替えが頻繁に行われる、と聞きます。まさに競争社会です。離婚も以前に比べて増えています。離婚する当人たちはもちろんのこと、子供たちの精神的負担もかなりのものでしょう。

離婚をしてはダメだ、と申し上げているわけではありません。また、競争社会が離婚を増やしているという単純な問題でもないとは思いますが、一方で「今、なにをやるべきか?」という根源的な問いをすっ飛ばして、ある意味安易な解決策に飛びついているような気もします。もちろん会社でも家庭でも「今、なにをやるべきか?」という問いに対する答えは結構頻繁に変わります。

私が起業家として学んだもっとも重要なことは、何を正しくやるべきかに全力を集中し、これまで何を間違えたか、今後何がうまくいかないかもしれないかについて無駄な心配をすることをやめるという点だろう。

うまくいかないときに、原因追及をやりすぎたり、ありもしない先々の心配をしてしまう、ということが私にもよくあります。今、この状況に集中する。これまでのルールやタスクセットに縛られずに、将来のやるべき事ばかりを考えずに、今どう変えるかを考える、ということは、かなりの難題です。

オーバルコースで時速360キロでレーシングカーを走らせるとき、もっとも重要なのは側壁ではなくコースそのものに意識を集中することだと教えられる。もしも側壁に意識を向けると、車は必ずそれに吸い寄せられ、衝突してしまう。

このたとえは、私にとってはわかりやすかったです。どうしても過去の経緯(速度やら向きやら)を意識してしまう。そこであきらめずに、どうにかして首をまわして別の方向に目を向ける。最も大変だけど最も大切なことかもしれません。

なにがなんでもライバルに打ち勝つ必要はない、と書きましたが、そうあくせくしなくてもいいのでは?という視点を忘れないことと同時に、打ち勝つべきはライバルではなく過去の自分であること、を忘れないようにしたいです。自戒をこめて。

うまくいかなくなる、その時に(1)

失敗する、つまり当初考えた通りに「うまくいかなくなる」のは、あたりまえのことなんです。

HARD THINGS 答えがない難問と困難にきみはどう立ち向かうか
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これは「起業家向けの経営書」なのですが、子育て家族の運営とスタートアップの会社の運営ってどことなく似てるところがあるなぁ、と思いながら読みました。どちらも「無」から「有」を生み出す営みなのです。私自身はスタートアップの経験は全くありませんし(この本を読んでなおのこと)こんな経験をする起業家にはなりたくないと思ったものですが、それでもテクノロジーに多少なりとも興味のある子育てパパにはおすすめできる本だと思います。

この本の最大の特徴は、成功するために何をすべきか、を書いた本ではない、ということです。いかなる優秀な経営者であっても、必ず一度は失敗する、つまり当初考えた通りに「うまくいかなくなる」ことがある、ということを著者は繰り返し強調した上で、そうなったときにどうすべきか?を書いた本です。

ところで、冬から春先にかけては、私にとって毎年一番家族の運営が厳しい時期です。妻と上の子供の体調が悪化し、いろいろなことが思う通りに行きません。この「うまくいかなくなる」と思った時の対応がとても大切だと、毎年痛感しています。

そもそも春先に体調が悪化しないように、事前にいろいろと手を打つわけです。去年もそうなったから、今年こそは、と思います。ただ、これが違う結果(つまり去年と同じ結果)になった時、徒労感が来ます。もうこの徒労感だけで体調を悪化させるには十分で、先のことを考えられなくなる。でも、そうは言ってられません。

ひとりで背負い込んではいけない。
自分の困難は、仲間をもっと苦しめると思いがちだ。しかし、真実は逆だ。責任のもっともある人が、失うことをもっとも重く受け止めるものだ。重荷をすべて分かち合えないとしても、分けられる重荷はすべて分け合おう。

何かのリソースが決定的に足りないとき、それをうわべで取り繕うとすると、必ずムリが来て、余計に事態が悪化します。だから、特にこういう時期は、この状況が「持続可能か?」を常に問いかける必要があるのかもしれません。そして、事態がより悪化する前に持続不可能だと判断して、何らかの手を打つ必要があるのでしょう。

まずは、判断ミスを認めて、リソースがないことを率直に認めることが必要です。ここに一つの大きな山があります。(私を含めて)人は誰でもミスを認めたくないものです。そして「持続可能」ではない、と気づいたら、いち早く声を上げて、周囲に認識してもらうことが大切だと思います。

「周囲」というのは物理的なつながり(つまり近所)でもネット上のつながりでもいいのですが、とにかく声を上げる。そうすると、なにかのレスポンスがある。思わぬところから強力な援助が得られるかもしれません。この春の我が家でも、実際にピンチになり、今までほとんど期待していなかったところからサポートを得ることができました。もちろん「逆効果」も有り得るのですが、それでも、まずは声を上げなければ始まらない。だから、ガマンして動かないのが最大のリスクであるような気がします。

この項続きます

「デスマーチ」を生き残るために(2)

前回の続きです。

ソフトウェア開発とはほぼ無縁の私がこの本を通読することができたのは、個人的に興味のあるテーマだったことのほかに、

「このスーパー・ウィジェット・システムは、何が何でも、絶対、必ず、1月1日までに完成させねばならない。でないと、世界が破滅する」。この指令が何段もの社内官僚の層を通過すると、どんどん尾ヒレが付いて、次のようになる…

こんな感じのちょっと皮肉めいたユーモアが、ほぼ全編にわたってまぶされていたからかもしれません。

さて、筆者がデスマーチを生き残るために最初に注意すべき点は「政治」である、と指摘します。プロジェクトの中身ではありません。上記の引用も、この「政治」について書かれた一節です。

ソフトウェア開発でも多種多様の関係者がいるのでしょうけど、子育ても同様です。実家、親類、先生、ママ友。自らの「プロジェクト」の方針に対し「味方」となってくれる人は誰か?常に気を配らなければなりません。同じ人が(本人の意思とは関係なく)いつの間にか味方から敵に変わってしまうことも、残念ながらありえます。

さらには、SNSを含むネットに流れる有象無象の意見も、その影響力はバカになりません。子育ては、ソフトウェア開発よりも変動要素が大きい(文字通り24時間何が起こるかわからんのです)ゆえに、「政治」は大きな問題点かもしれません。

もちろん影響力を最小限にする、つまり人付き合いやネットとの接触を減らす、という選択肢もありえますが、昨今の子育てではあまりお勧めはできません。親だけで全てのミッションをこなすのは物理的に不可能と言っていい。ただ、子供の成長に合わせて、近しい「関係者」をこちらから意図的にシャッフルすることは、考慮すべきでしょう。

本書の後半では「時間の管理」についても一章をさいて述べられています。ただ、ここでは管理ツールの名前が出てくるわけではなく、なぜ無駄に時間を使ってしまうのか?とついて触れ、あの『7つの習慣』にも登場する「重要性/緊急性」の4象限も登場します。

また、物事の重要性/緊急性を決定するのは、プロジェクトの中身もさることながら、関係者との「政治」も深く関わる、と筆者は指摘します。関係者がどーでもいいことで緊急性をがなりたてるとプロジェクトに余計な停滞が発生する。残念ながらよくある話ですが、その面でも「政治」に気を使うことは、時間の有効な使い方に影響することがわかります。

そして、筆者が最後に強調した一節

それよりずっと重要なのは、生き残ることだ。我々が目指すデスマーチ・プロジェクトは、上層部を驚嘆させる日程と予算で進捗し、エンドユーザーに輝かしい結果を提供するものだが、我々は、これらすべてを健康、才覚、家族、ユーモアのセンスのどれも損なわないで行うべきなのだ。それができてこそ最高だ。

なによりも、生き残ること、できればユーモアのセンスを忘れずに生き残ること、これが大事なのだと思います。

全ての「プロジェクト・マネージャー」のみなさま、笑って、良いお年を。

「デスマーチ」を生き残るために(1)

生き残れば十分なんです。少なくとも、最低条件ではないんです。

私はIT業界に勤めているわけではありません。ただ、ソフトウェア開発のプロジェクト・マネジメントには若干の興味がありました。子育てや自分の人生構築に何らかの参考になるかもしれない、と思ったからです。

この本は全ての子育てパパにオススメできる、というわけではありません。ソフトウェア開発の専門用語が頻発し、私も専門用語はあまり理解できていないと思います。ただ、1944年生まれの著者が、巻頭に

4世代にわたり家族が増えたことは、
デスマーチ・プロジェクトで、
何が重要で、
何が最優先すべきかを
適切に決める上で、
最大のヒントになった

と書いたのを見て、あ、これは期待出来る、と思いました。

まず著者は「デスマーチ」の定義から書き起こします。幾つかの定義の中で、こういう項目があります

通常必要な人数の半分以下しかエンジニアを割り当てないプロジェクト

二人の子供を持つ父親として言わせていただければ、両親の片一方が不在がち、あるいは病気がちで、子供が二人以上いて、かつ「実家」の定常的支援が得られない子育ては、ほとんどこれに該当する、つまり「デスマーチ」である、と言っていいと思います。現代の子育てにおいて、かなりの核家族は「デスマーチ」にならざるをえないのです。

その一方で、著者はこうも書いています

私の結論は、デスマーチ・プロジェクトは、常態であって、例外ではないというものだ。

異論がある方も多々あるかと思います。ソフトウェア開発と子育てを一緒にするとは何事か?と思う方もおられるかと思います。ただ、著者はデスマーチ・プロジェクトに反対しているわけではないことを強調し、その上で、デスマーチ・プロジェクトを成功させ、生き残るために何をすればいいか、に焦点を絞ってこの本を書いています。

そのために、これだけは覚えておいてほしい言葉として「トリアージ」をあげています。医療におけるトリアージの概念を聞いたことがあるかもしれません。特に救急医療において、限られた医療資源をどの患者さんにどの程度つぎ込むか、という難しい判断です。これを、プロジェクト管理にも応用するのです。乏しい資源(人、時間、お金)を何につぎ込むのか?

私が関係したほとんどすべてのデスマーチ・プロジェクトでは、システムの要求項目を、トリアージスタイルで、
「やらねばならぬ(must-do)」
「やったほうがいい(should-do)」
「やれればできる(could-do)」
の三つに分けるのが常識となっていた。

この三つの分け方は、単純ではありますが、私にとっては新たな発見でした。重要度を10段階に分けるよりよっぽどわかりやすいです。そして、すべての要求項目が「やらねばならぬ(must-do)」に入っている時点で、すでにおかしい、と容易に気づくこともできます。

もちろん子供に対して出来る限りの事はしてあげたい、というのは自然な親心ですし、残念ながらそれを無理に押し付ける人も少なくありません。でも、トリアージスタイルで、できないことはできない、と判断することは、ソフトウェア開発よりはるかに複雑な子育てにおいて、とても大切なことだと思います。

この項、続きます。

休養という名のタスク

夏休み。
子供たちの世話が一層大変になるこの時期に、逆に「休もう」という話で恐縮ですが…

残念な人類のためのタスク・スケジュール管理術:発達障害就労日誌

先日twitterで取り上げた方のブログです。この方自身がADHDで、読者もADHDの方を想定されたものですが、ADHDに向き合う人、私を含めADHDの方のタスク構築に向き合う人にとっても、非常に参考になります。このエントリで最も強調しているのは、

まっさらの手帳、あるいはインストールしたばかりのアプリに最初に記入するべきは、「最も重要で」「最も実行の容易な」タスクなんですよ。これを軸にして予定を立てるべきなんです。はい、具体的にそのタスクとは何か。休養です。何もしないというタスクです。

私もよく妻に言います。まず、あなたが休む日を取って、と。ところが妻はこれを実行しません。それには、いくつか理由が考えられます。

まず、妻が専業主婦であり、働いている私よりも時間の自由がきく、ということ。これは普通の専業主婦ならその通りですが、妻は普通の専業主婦ではありません。すぐに頭の中が混乱し、子供達を学校に行かせるタスクを終えた時点でかなりの気力体力を消耗し、かつ最低週1回はなんらかの通院が必要です。あっという間に時間が過ぎる。一見平日は容易に「休養」が取れそうなのに、結果的にできない。そして、常に子供がいる休日は言わずもがな。

もう一つは「私よりもあなたの方が大変だから先に(休みを)取って」。日本人の美徳、「譲り合い」の精神です。あの東日本大震災で被災された方が「もっと大変な方がおられる」と静かにおっしゃっていた光景を何度も目にしました。これはこれで(エゴ丸出しよりも)とても素晴らしいことなのですが、これが過ぎると、逆に「物事が進まない」という弊害が発生しかねません。そこで、そう言われたら、私は遠慮なく休むことにしています。でないと、妻が休まないからです。

人間は休日が大好きなくせに、いざスケジューリングをする段になるとそれを一番おろそかにします。しかし、このガンガンスマホが鳴りメールが届きラインがピンピンいう時代に、「休養を取る」というのは立派なタスクです。そこには明文化された意思の力が必要です。

そう、意志の力。「休養」というタスクは、実行は容易なのに、設定はとても困難です。特にやりたいことがいっぱいあるのに、そのやりたいことを押しのけて空白の時間を設定するということは、ADHDでなくても、実はとても勇気がいることなのでしょう。

そういう私も「休養」は滅多に取れません。家は休息の場所ではなく、常に家事育児に追われる「戦場」です。子供に対して、あれやれこれやれ、と言っている一方で、こちらが何もしないと「何サボってるの?」と言われかねない。だから子持ちの親御さんはなおのこと「休養」が取りづらい。これは本当に実感しています。

ただ「休養」というタスクは、「できるときにやっておかないと、いつまでたってもできない」という感覚に対する抵抗ではない。むしろ逆で、「休養」を意図的に設定することで実行可能な時間が制限され、本当にやりたいことが無意識にしろ選別される。

「子供に対してできる限りのことをしてあげたい」という思考に対する裏切りでなく、最終的には家族全員の心の平静という最も高い価値を産むもの。「休養」というタスクは、「サボる」というネガティブな感覚とは逆に、Quality of Lifeを高める近道の一つなのかもしれません。

どこまで削るか、どこまで言うか

私がワークライフバランスをなんとか維持してこれた理由が、これを読んでなんとなくわかってきました。

私はこれまで多くの上司に仕えましたが、このようなまともに「阻害する」タイプには会わなかったような気がします。職種によるところも大きいのですが、一つの大きな理由は、最初から自分の仕事を「制限」し、それを明確に宣言したからかもしれません。

ただ、問題は二つあります。どこまで制限し、どのように宣言するか、です。

私がワークライフバランスを維持できたのは、一つには単純に仕事の分量を減らしたからですが、なんでも減らせばいい、というものでもない。

自分が生活するための最低限のライン、そこまでなら減らせるし減給も受け入れられるライン。そこを探るには案外難しいような気がします。それこそ微妙な「バランス」が必要です。これが今のところたまたま上手くいったから、今の生活が成り立っている。仕事を増やすのは簡単です。なんでも言われたことを引き受ければいいのですが、減らすのは難しい。単にやめればいい、という問題ではない。

私の勤めている会社では、年度初めに各人の「目標」が設定されます。これは上司が勝手に決めるのではなく、まず自分が書いて、上司と相談の上で決めることになっています。ここで、ある大枠が決められる。これ以上のことはやらなくていい。もちろん諸事情で「これ以上のこと」をやる可能性はあるのですが、まず年度始めにベースラインを設定しておくことは、とても大切なことだと思います。

もう一つは、これを「明確に宣言」すること。これも言えばいいという問題ではありません。労働者の権利として、やった分にはお金をもらう。やらない分にはもらえない。その原則に従っていればやらない理由はなんだっていい。というのは、言い過ぎかもしれません。単に遊びたいから仕事を減らしてください、では論理的にはともかく、感情的には受け入れがたい。

さらには、話を聞く側の人(つまり管理者側)が「戦線拡大」つまり成長するのが当たり前というマインドだと仕事を減らすことを単純に理解できない、という反応も考えられます。しかし、そういう人も今後は減るかもしれません。というのも、幸か不幸か、話を聞く方も親の介護とかなんとかで「戦線変化」の問題は身近に感じているはずです。私の場合のように、妻が病弱で家を回すのが大変なんです、というと、これは人生における「戦線変化」です。仕事の面では縮小だが、家庭の面では拡大している。しかもその拡大/縮小の状況は常に変化している。ここにも「バランス」が存在する。

それでもとにかく、まずは言わないことには始まらない。理由は一通り整えた上で、シンプルに、できないんです、と。それこそが強者の論理と臆病者の論理を越える第一歩かもしれません。

死んじゃうさだめ、とのたたかい

金融危機がネタになれば、絵本もネタになりえます。

このあと どうしちゃおう
ヨシタケ シンスケ
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私にとって著者の本は「りんごかもしれない」「ぼくのニセものをつくるには」に続いて3冊目。近くの本屋で平積みされていたのをうちの子供達が見つけて、買って買って、とせがまれました。この本は子供向けの絵本としては珍しく「死」に向き合ったもの。しかし、彼独特の文体はいい意味で重々しさを感じさせません。

本を開けると、いきなり「こないだ おじいさんが しんじゃった」という一文から始まります。ところが、その後、おじいさんが生前に残した『このあと どうしちゃおう』というノートが見つかって、それを読んだ主人公が「このまえ」、つまり自分が死ぬ前のことを合わせて考え始める、という筋書きです。

その『このあと どうしちゃおう』は、遺書ではありません。普通遺書というのは、この世に残された関係者に対してメッセージを残したりするものです。ところがこのノートには、自分が死んだらこのようにして生まれ変わりたいとか、こういうお墓や記念品を作ってほしいとか、つまり自分自身のことしか書いてない。まさにこれは、以前取り上げた「死すべき定め」の大きな主題のひとつである「一貫性」の問題です。

主題の重さのせいか、ブックレットが付録についており、著者へのインタビューが収録されています。そこに、こんな一文があります。

で、これは実感なのですが、人は死の間際になればなるほど、死について語れないんです。(略)父も母も健康で元気な時に、もっとカジュアルに死について話ができたらよかったな、と思ったんです。

これは重要な指摘であり、私自身の実感とも一致します。「死すべき定め」でも、自分が死ぬことについて自分自身が意識して、前もって周囲に話すことの重要性が指摘されています。そうすることで自分自身はもちろん、関係者一同のQuality of Lifeが逆に上がる。それは自分の「一貫性」を周囲に示すことで、それに寄り添った関係者の安心感や幸福感にもつながることだ、と思います。

そしてもうひとつ、こんな一文がありました。

「死んじゃいたい」と思いつめている子に、「死んではだめ」と言う前に、その子の視界がひらけるような、冗談なり小話なりといったものを大人がいかに持つか。

これは「死すべき定め」でも取り上げられていない指摘です。自殺願望を持つ人は、自分のやりたことができない、あるいは一貫性を保てないことがその大きな原因になっていることが多いと思いますが、そこをいかにやり過ごすか。特に一貫性を保ちにくい子供に対して、大人がどうやってサポートしてあげるか、ここは重要なポイントのような気がします。

実はこの本は昨年刊行されていますが、私が本屋で見かけたのは、最近のことです。季節的に子供達がいろいろと不安に思うことが多いこの時期に、本屋さんが仕掛けた、子供達へのささやかな応援だったのかもしれません。もちろん、私自身にとっても。

ルーチン:ほんの少しのコントロール

あるメルマガに、こういう一文がありました。

自分の人生を生きたけば、自分にそれがコントロールできないことを受け入れなければなりません。ままならないこと。それが人生の特徴です。

そうですね。私の場合は、特に冬から春にかけて、そう感じます。家族の誰かが、ある予定を立てる。その後体調不良となり、ドタキャンする。さらにはそのフォローのため、予定外の行動が発生する。その影響が将棋倒しのように家族全員に波及する。予定を立てなきゃいい、という問題ではない。暮らしの中で必ず発生するルーチンすら実行できない。その実行のために突発の年休が必要な場合もある。

不思議なことに主要因がコロコロ変わるのですが、とにかく上記のようなことが毎年起こる。そしてあの一文を実感するのです。

しかし、これは精神的にかなりつらい。全てを完全にコントロールしようとは思ってないし、できないことはわかっている。でも、いくらかのコントロール感は持っていないと、自分を保つことができない。少なくとも私はそう思います。そんな私がコントロールを失って倒れたら、家庭が崩壊しかねない。それを防ぐにはどうしたらいいか?

そのとっかかりとして、ほんの少しのコントロールを持つための手段として、最近思いついたのがその「ルーチン」の把握でした。

以前こういう記事を書いたことがありました。あれは年間ルーチンの一部分を見渡すことでコントロール感を持とうとする動きでした。ある日、これを年中やればどうなるか?と考えたのです。

そこで紙を持ち出して、ひと月を上旬中旬下旬に分け、年間36マスに思いつく家族の主要行事を書き込んで行きました。すると、全てのマスが埋まらないまでも、2マス連続での空欄はない、ということに気づきました。結構な量です。

一方、この2ヵ月ほどのごたごたで、妻の最重要ルーチンが崩壊していたことが、ある日判明しました。すなわち、病院の通院日程です。異なる科の病院に、毎月3~4回行く必要があります。同時に薬ももらいますから、薬が切れたら大変です。彼女のQOLの低下に直結します。びっくりした私はとにかく通院日程を決めさせて、私が年休取って子供たちをフォローしてでも、妻に行かせました。こういう泥縄のようなことは、あまりやりたくない。

先日、妻と話し合いを持ちました。目的は3つ。まず、妻の月間ルーチンを確認すること(ここで言及した月1回の「対話」=実際にはランチも含みます)。次に、年間ルーチンを眺めた上で、特に3ヵ月先までの予定を確認し(気がつけばその先も)、それに向けて準備すべきことを確認すること。最後に、この「月次作戦会議」を毎月やるのを確認すること。

これをやっても、また何らかのトラブルは避けがたく発生するでしょう。ただ、その発生したトラブルに対する気の持ちようが違うような気がします。変な言い方をすると、真ん前からタマが飛んでくるか、真後ろからタマが飛んでくるか、の違い。どちらにしろタマは飛んでくるのですが、当たっってしまった後の心の持ちようが少しは違うような気がします。

「いい加減」な親、いい「加減」な親

3月になりましたが、毎年冬から春先は妻の体調が一番きつい時期です。精神的な影響も大きく出ます。
といった状況で、このブログを読んで、いろいろ考えさせられました。

あなたは「正しい親」をイメージできますか:シロクマの屑籠

 子どもを一人で置き去りにする親は正しくない。
 子どもに体罰する親も正しくない。
 子どもの教育に無頓着な親も正しくない。
 不規則な生活や偏った食事に無頓着な親も正しくない。

私事で恐縮ですが、私は物心ついたころから片親で育ちました。毎日働いていて、かつ実家や親類とはほとんど接触がありませんでしたから、当然自分は一定時間放置されます。さすがにひとりで放置は危険と思ったのか、ほぼ毎日塾か習い事のようなことをやってました。なので、教育に無頓着ではありませんでしたが、生活や食事は不規則でした。見事に偏食でした。

で、うちは当時からなんとなく「正しい親」ではないとは思ってましたが、自分を育てるためにやむを得ないとも感じてましたし、多種多様な家庭環境をクラスメートとかから聞くなかで相対化し、「衣食住と、多少のおもちゃがあれば十分ありがたいのだ」と思っていたので、言ってみれば基準となるベースが低かったのです。

一方、私の妻の両親は、多くの方が「正しい親」だと認定してしかるべき方です。厳格な父親、家事万能な母親、当然親戚筋の付き合いは欠かすことなく、娘にはカッチリと門限が設定される。もちろんクラスメートから多様な家庭環境は聞いていたようですが、伝家の宝刀「ヨソはヨソ、ウチはウチ」であっさり説得されてしまい、自分にとっては自分の家が当たり前、と思ってしまったようです。

すると、どうなるか。「正しい親」である彼女の両親が無意識にもベースとなる。さらに彼女は軽度のADHDですから、彼女の母親のように家事や育児がキチンとできないことがままある。そこで「自分はダメな人だ」と思ってしまう。

ここで、問題点が二つあります。一つは基準のレベルをどこに置くか。低ければいいという問題ではありませんが、高すぎると、破綻します。
 
もう一つは、どの程度「幅」を持たせるか。いくら出来る人でも、調子の悪い時はあります。そこで一定の幅を許容しないと、これまた破綻します。ところが、頭の中が簡単にとっちらかるADHDのよう方は、この調整が難しい。極端な話、オンとオフしかできない。ずっとオンのままだと、当然破綻します。

私は破綻を回避すべく、半ば意図的に子供の前でオフ状態を見せるので、子供たちから「適当大魔神」という、わけのわからんあだ名をもらっていますが、悪く言えば「いい加減」です。

そんな私を、いい「加減」ができるからうらやましい、と妻は言ってくれますが、やりたくてもできない彼女の気持ちを察することしかできません。これは誰かに言われて急に出来るものではない。長い年月をかけてゆっくりと変わっていくものでしかないような気がします。気長に、待つしかない。

自己愛研究で名高いハインツ・コフートという精神科医は、「最適な両親とは“最適に失敗する”両親のことである」という言葉を残しているが、私もそのとおりだと思う。

これは至言だと思います。私が最適な親かどうかはわかりませんが、少なくとも、いついかなる時も「正しい親」であることを押し付けて、子どもを窒息させるようなことはしたくない、と考えています。

極言すれば「正しい親」なんて、この世に存在しません。存在しえないものを要求するのは、理不尽でしかない。存在すべきは最適な親なんだ、と思います。