休養という名のタスク

夏休み。
子供たちの世話が一層大変になるこの時期に、逆に「休もう」という話で恐縮ですが…

残念な人類のためのタスク・スケジュール管理術:発達障害就労日誌

先日twitterで取り上げた方のブログです。この方自身がADHDで、読者もADHDの方を想定されたものですが、ADHDに向き合う人、私を含めADHDの方のタスク構築に向き合う人にとっても、非常に参考になります。このエントリで最も強調しているのは、

まっさらの手帳、あるいはインストールしたばかりのアプリに最初に記入するべきは、「最も重要で」「最も実行の容易な」タスクなんですよ。これを軸にして予定を立てるべきなんです。はい、具体的にそのタスクとは何か。休養です。何もしないというタスクです。

私もよく妻に言います。まず、あなたが休む日を取って、と。ところが妻はこれを実行しません。それには、いくつか理由が考えられます。

まず、妻が専業主婦であり、働いている私よりも時間の自由がきく、ということ。これは普通の専業主婦ならその通りですが、妻は普通の専業主婦ではありません。すぐに頭の中が混乱し、子供達を学校に行かせるタスクを終えた時点でかなりの気力体力を消耗し、かつ最低週1回はなんらかの通院が必要です。あっという間に時間が過ぎる。一見平日は容易に「休養」が取れそうなのに、結果的にできない。そして、常に子供がいる休日は言わずもがな。

もう一つは「私よりもあなたの方が大変だから先に(休みを)取って」。日本人の美徳、「譲り合い」の精神です。あの東日本大震災で被災された方が「もっと大変な方がおられる」と静かにおっしゃっていた光景を何度も目にしました。これはこれで(エゴ丸出しよりも)とても素晴らしいことなのですが、これが過ぎると、逆に「物事が進まない」という弊害が発生しかねません。そこで、そう言われたら、私は遠慮なく休むことにしています。でないと、妻が休まないからです。

人間は休日が大好きなくせに、いざスケジューリングをする段になるとそれを一番おろそかにします。しかし、このガンガンスマホが鳴りメールが届きラインがピンピンいう時代に、「休養を取る」というのは立派なタスクです。そこには明文化された意思の力が必要です。

そう、意志の力。「休養」というタスクは、実行は容易なのに、設定はとても困難です。特にやりたいことがいっぱいあるのに、そのやりたいことを押しのけて空白の時間を設定するということは、ADHDでなくても、実はとても勇気がいることなのでしょう。

そういう私も「休養」は滅多に取れません。家は休息の場所ではなく、常に家事育児に追われる「戦場」です。子供に対して、あれやれこれやれ、と言っている一方で、こちらが何もしないと「何サボってるの?」と言われかねない。だから子持ちの親御さんはなおのこと「休養」が取りづらい。これは本当に実感しています。

ただ「休養」というタスクは、「できるときにやっておかないと、いつまでたってもできない」という感覚に対する抵抗ではない。むしろ逆で、「休養」を意図的に設定することで実行可能な時間が制限され、本当にやりたいことが無意識にしろ選別される。

「子供に対してできる限りのことをしてあげたい」という思考に対する裏切りでなく、最終的には家族全員の心の平静という最も高い価値を産むもの。「休養」というタスクは、「サボる」というネガティブな感覚とは逆に、Quality of Lifeを高める近道の一つなのかもしれません。

どこまで削るか、どこまで言うか

私がワークライフバランスをなんとか維持してこれた理由が、これを読んでなんとなくわかってきました。

私はこれまで多くの上司に仕えましたが、このようなまともに「阻害する」タイプには会わなかったような気がします。職種によるところも大きいのですが、一つの大きな理由は、最初から自分の仕事を「制限」し、それを明確に宣言したからかもしれません。

ただ、問題は二つあります。どこまで制限し、どのように宣言するか、です。

私がワークライフバランスを維持できたのは、一つには単純に仕事の分量を減らしたからですが、なんでも減らせばいい、というものでもない。

自分が生活するための最低限のライン、そこまでなら減らせるし減給も受け入れられるライン。そこを探るには案外難しいような気がします。それこそ微妙な「バランス」が必要です。これが今のところたまたま上手くいったから、今の生活が成り立っている。仕事を増やすのは簡単です。なんでも言われたことを引き受ければいいのですが、減らすのは難しい。単にやめればいい、という問題ではない。

私の勤めている会社では、年度初めに各人の「目標」が設定されます。これは上司が勝手に決めるのではなく、まず自分が書いて、上司と相談の上で決めることになっています。ここで、ある大枠が決められる。これ以上のことはやらなくていい。もちろん諸事情で「これ以上のこと」をやる可能性はあるのですが、まず年度始めにベースラインを設定しておくことは、とても大切なことだと思います。

もう一つは、これを「明確に宣言」すること。これも言えばいいという問題ではありません。労働者の権利として、やった分にはお金をもらう。やらない分にはもらえない。その原則に従っていればやらない理由はなんだっていい。というのは、言い過ぎかもしれません。単に遊びたいから仕事を減らしてください、では論理的にはともかく、感情的には受け入れがたい。

さらには、話を聞く側の人(つまり管理者側)が「戦線拡大」つまり成長するのが当たり前というマインドだと仕事を減らすことを単純に理解できない、という反応も考えられます。しかし、そういう人も今後は減るかもしれません。というのも、幸か不幸か、話を聞く方も親の介護とかなんとかで「戦線変化」の問題は身近に感じているはずです。私の場合のように、妻が病弱で家を回すのが大変なんです、というと、これは人生における「戦線変化」です。仕事の面では縮小だが、家庭の面では拡大している。しかもその拡大/縮小の状況は常に変化している。ここにも「バランス」が存在する。

それでもとにかく、まずは言わないことには始まらない。理由は一通り整えた上で、シンプルに、できないんです、と。それこそが強者の論理と臆病者の論理を越える第一歩かもしれません。

死んじゃうさだめ、とのたたかい

金融危機がネタになれば、絵本もネタになりえます。

このあと どうしちゃおう
ヨシタケ シンスケ
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私にとって著者の本は「りんごかもしれない」「ぼくのニセものをつくるには」に続いて3冊目。近くの本屋で平積みされていたのをうちの子供達が見つけて、買って買って、とせがまれました。この本は子供向けの絵本としては珍しく「死」に向き合ったもの。しかし、彼独特の文体はいい意味で重々しさを感じさせません。

本を開けると、いきなり「こないだ おじいさんが しんじゃった」という一文から始まります。ところが、その後、おじいさんが生前に残した『このあと どうしちゃおう』というノートが見つかって、それを読んだ主人公が「このまえ」、つまり自分が死ぬ前のことを合わせて考え始める、という筋書きです。

その『このあと どうしちゃおう』は、遺書ではありません。普通遺書というのは、この世に残された関係者に対してメッセージを残したりするものです。ところがこのノートには、自分が死んだらこのようにして生まれ変わりたいとか、こういうお墓や記念品を作ってほしいとか、つまり自分自身のことしか書いてない。まさにこれは、以前取り上げた「死すべき定め」の大きな主題のひとつである「一貫性」の問題です。

主題の重さのせいか、ブックレットが付録についており、著者へのインタビューが収録されています。そこに、こんな一文があります。

で、これは実感なのですが、人は死の間際になればなるほど、死について語れないんです。(略)父も母も健康で元気な時に、もっとカジュアルに死について話ができたらよかったな、と思ったんです。

これは重要な指摘であり、私自身の実感とも一致します。「死すべき定め」でも、自分が死ぬことについて自分自身が意識して、前もって周囲に話すことの重要性が指摘されています。そうすることで自分自身はもちろん、関係者一同のQuality of Lifeが逆に上がる。それは自分の「一貫性」を周囲に示すことで、それに寄り添った関係者の安心感や幸福感にもつながることだ、と思います。

そしてもうひとつ、こんな一文がありました。

「死んじゃいたい」と思いつめている子に、「死んではだめ」と言う前に、その子の視界がひらけるような、冗談なり小話なりといったものを大人がいかに持つか。

これは「死すべき定め」でも取り上げられていない指摘です。自殺願望を持つ人は、自分のやりたことができない、あるいは一貫性を保てないことがその大きな原因になっていることが多いと思いますが、そこをいかにやり過ごすか。特に一貫性を保ちにくい子供に対して、大人がどうやってサポートしてあげるか、ここは重要なポイントのような気がします。

実はこの本は昨年刊行されていますが、私が本屋で見かけたのは、最近のことです。季節的に子供達がいろいろと不安に思うことが多いこの時期に、本屋さんが仕掛けた、子供達へのささやかな応援だったのかもしれません。もちろん、私自身にとっても。

ルーチン:ほんの少しのコントロール

あるメルマガに、こういう一文がありました。

自分の人生を生きたけば、自分にそれがコントロールできないことを受け入れなければなりません。ままならないこと。それが人生の特徴です。

そうですね。私の場合は、特に冬から春にかけて、そう感じます。家族の誰かが、ある予定を立てる。その後体調不良となり、ドタキャンする。さらにはそのフォローのため、予定外の行動が発生する。その影響が将棋倒しのように家族全員に波及する。予定を立てなきゃいい、という問題ではない。暮らしの中で必ず発生するルーチンすら実行できない。その実行のために突発の年休が必要な場合もある。

不思議なことに主要因がコロコロ変わるのですが、とにかく上記のようなことが毎年起こる。そしてあの一文を実感するのです。

しかし、これは精神的にかなりつらい。全てを完全にコントロールしようとは思ってないし、できないことはわかっている。でも、いくらかのコントロール感は持っていないと、自分を保つことができない。少なくとも私はそう思います。そんな私がコントロールを失って倒れたら、家庭が崩壊しかねない。それを防ぐにはどうしたらいいか?

そのとっかかりとして、ほんの少しのコントロールを持つための手段として、最近思いついたのがその「ルーチン」の把握でした。

以前こういう記事を書いたことがありました。あれは年間ルーチンの一部分を見渡すことでコントロール感を持とうとする動きでした。ある日、これを年中やればどうなるか?と考えたのです。

そこで紙を持ち出して、ひと月を上旬中旬下旬に分け、年間36マスに思いつく家族の主要行事を書き込んで行きました。すると、全てのマスが埋まらないまでも、2マス連続での空欄はない、ということに気づきました。結構な量です。

一方、この2ヵ月ほどのごたごたで、妻の最重要ルーチンが崩壊していたことが、ある日判明しました。すなわち、病院の通院日程です。異なる科の病院に、毎月3~4回行く必要があります。同時に薬ももらいますから、薬が切れたら大変です。彼女のQOLの低下に直結します。びっくりした私はとにかく通院日程を決めさせて、私が年休取って子供たちをフォローしてでも、妻に行かせました。こういう泥縄のようなことは、あまりやりたくない。

先日、妻と話し合いを持ちました。目的は3つ。まず、妻の月間ルーチンを確認すること(ここで言及した月1回の「対話」=実際にはランチも含みます)。次に、年間ルーチンを眺めた上で、特に3ヵ月先までの予定を確認し(気がつけばその先も)、それに向けて準備すべきことを確認すること。最後に、この「月次作戦会議」を毎月やるのを確認すること。

これをやっても、また何らかのトラブルは避けがたく発生するでしょう。ただ、その発生したトラブルに対する気の持ちようが違うような気がします。変な言い方をすると、真ん前からタマが飛んでくるか、真後ろからタマが飛んでくるか、の違い。どちらにしろタマは飛んでくるのですが、当たっってしまった後の心の持ちようが少しは違うような気がします。

「いい加減」な親、いい「加減」な親

3月になりましたが、毎年冬から春先は妻の体調が一番きつい時期です。精神的な影響も大きく出ます。
といった状況で、このブログを読んで、いろいろ考えさせられました。

あなたは「正しい親」をイメージできますか:シロクマの屑籠

 子どもを一人で置き去りにする親は正しくない。
 子どもに体罰する親も正しくない。
 子どもの教育に無頓着な親も正しくない。
 不規則な生活や偏った食事に無頓着な親も正しくない。

私事で恐縮ですが、私は物心ついたころから片親で育ちました。毎日働いていて、かつ実家や親類とはほとんど接触がありませんでしたから、当然自分は一定時間放置されます。さすがにひとりで放置は危険と思ったのか、ほぼ毎日塾か習い事のようなことをやってました。なので、教育に無頓着ではありませんでしたが、生活や食事は不規則でした。見事に偏食でした。

で、うちは当時からなんとなく「正しい親」ではないとは思ってましたが、自分を育てるためにやむを得ないとも感じてましたし、多種多様な家庭環境をクラスメートとかから聞くなかで相対化し、「衣食住と、多少のおもちゃがあれば十分ありがたいのだ」と思っていたので、言ってみれば基準となるベースが低かったのです。

一方、私の妻の両親は、多くの方が「正しい親」だと認定してしかるべき方です。厳格な父親、家事万能な母親、当然親戚筋の付き合いは欠かすことなく、娘にはカッチリと門限が設定される。もちろんクラスメートから多様な家庭環境は聞いていたようですが、伝家の宝刀「ヨソはヨソ、ウチはウチ」であっさり説得されてしまい、自分にとっては自分の家が当たり前、と思ってしまったようです。

すると、どうなるか。「正しい親」である彼女の両親が無意識にもベースとなる。さらに彼女は軽度のADHDですから、彼女の母親のように家事や育児がキチンとできないことがままある。そこで「自分はダメな人だ」と思ってしまう。

ここで、問題点が二つあります。一つは基準のレベルをどこに置くか。低ければいいという問題ではありませんが、高すぎると、破綻します。
 
もう一つは、どの程度「幅」を持たせるか。いくら出来る人でも、調子の悪い時はあります。そこで一定の幅を許容しないと、これまた破綻します。ところが、頭の中が簡単にとっちらかるADHDのよう方は、この調整が難しい。極端な話、オンとオフしかできない。ずっとオンのままだと、当然破綻します。

私は破綻を回避すべく、半ば意図的に子供の前でオフ状態を見せるので、子供たちから「適当大魔神」という、わけのわからんあだ名をもらっていますが、悪く言えば「いい加減」です。

そんな私を、いい「加減」ができるからうらやましい、と妻は言ってくれますが、やりたくてもできない彼女の気持ちを察することしかできません。これは誰かに言われて急に出来るものではない。長い年月をかけてゆっくりと変わっていくものでしかないような気がします。気長に、待つしかない。

自己愛研究で名高いハインツ・コフートという精神科医は、「最適な両親とは“最適に失敗する”両親のことである」という言葉を残しているが、私もそのとおりだと思う。

これは至言だと思います。私が最適な親かどうかはわかりませんが、少なくとも、いついかなる時も「正しい親」であることを押し付けて、子どもを窒息させるようなことはしたくない、と考えています。

極言すれば「正しい親」なんて、この世に存在しません。存在しえないものを要求するのは、理不尽でしかない。存在すべきは最適な親なんだ、と思います。

チェックリスト 今そこにある安全網(2)

前回の続きです。

先日、とあるメルマガに、こんな一文がありました。

カイジに出てくる綱渡りならぬ、鉄筋渡り。もし、あの鉄筋の下にセーフティーネットを貼ってくれるなら、参加者は50万円くらいは簡単に支払うことに同意するのではないか。でも、もしそれが平べったい地面を歩いているとき、あるいはせいぜい30cm程度の高さの場合には「考えられない」ことだろう。

私はカイジを読んだことがないのですが、安全網の重要性を認識できる、わかりやすいたとえです。この「高さ」を「複雑さ」に置き換えて考えて考えてみましょう。この本の中に複雑さのわかりやすい例えが出てきます。

世の中の問題は、三つに分類できるという。
一つ目は「単純な問題だ」ケーキの焼き方などがこれにあたる。(略)
二つ目は「やや複雑な問題」だ。ロケットを月に飛ばすのはこれにあたる。(略)
三つ目は「複雑な問題」で、子育てがよい例だ。(略)経験は有用だが、それだけでは不充分だ。

筆者は「やや複雑な問題」にあたるビルの工事現場を見学し、二つのチェックリストを発見します。ひとつは、個々の膨大な作業のチェックリスト、もう一つは「提起スケジュール」と呼ばれるチェックリストです。これは何月何日にこれこれについてみんなで話し合う、ということ書かれています。なにか想定外のことが起こった場合、コミュニケーションの場を確保して、解決にあたります。

あるプロジェクトを進める際、事前に万全の準備をしていたとしても、やっている最中に問題は必ず起こる。「提起スケジュール」は、そういう認識のもとに存在します。問題が発見されたとしても、深刻化する前に手を打っておく。まさに「安全網」です。多くの人の知恵を借りた安全網。それが、もう一つのチェックリストです。

この経験をもとに、子育てのような複雑な問題への対応こそ、チェックリストが必要不可欠であり、チェックリストという形を用いることにより、より良い判断ができるのではないか、と筆者は指摘します。

さて、子育てにおいてチェックリストが有効と思われる2つの場面を考えました。一つは日々の活動に対するもの。例えば子供たちの学校や幼稚園に行く前に確認すべきことのチェックリスト。これは「持ち物リスト」ですね。単純ですが、学校は時間割があるので持ち物は毎日変わります。行事も頻繁にあります。バカにはできません。

もう一つは、大きな原則に関すること。例えば、子供にある新しい習い事をさせるかどうか考えるときに考慮すべきことのチェックリスト。ある時点で新しい習い事をさせたい、と思ったとする。大きな教育方針の変更です。その場合、まず相談スケジュールを設定する。そして考慮すべき項目を考える。お金、時間、我が家の教育方針。いろいろあるでしょう。これらを明記して意識しておくことが大事なのかもしれません。

いずれにしても、ひとりではできせん。最低限家族内のコミュニケーションはとって、いろいろな知識や見方を反映させたほうがいいのでしょう。でも、家庭内会議ですから、大人は二人。お父さんとお母さんしかいません。大人数の大人が関わる工事現場とは違います。孤独かもしれませんね。

この項、続きます。

チェックリスト 今そこにある安全網(1)

最近、いろいろな場面で「タスク管理」について考えることが増えてきました。そこで、まずこの本を読み返すことから始めてみました。

原題は”Checklist Manifesto”、チェックリスト宣言。チェックリスト自体を主題にした本はあまりないと思います。2011年に出版されて、私の持っているのは翌年発行の4刷。日本ではあまり目立っていませんが、アメリカでは大ヒットしたそうです。

で、久しぶりに読んでみて、買って読んだ時にはほとんど気づかなかったキーワードが、今回浮かび上がってきました。

人間の記憶力や注意力には限界があるので、見逃しやミスはどうしても起きてしまう。チェックリストはそのような失敗を防いでくれる安全網なのだ。

そう、安全網。

一見ディフェンシブな感じのするこの言葉の意味するところを深く考えたとき、タスクを整理し、チェックリストにまとめる意義の深さに思い至りました。

とはいえ、誰でも思うわけです。チェックリストなんて、いらない。そんなのあたりまえで、言われなくてもわかってる、と。

この本は、本業が外科医である著者が、WHOと協力して「手術を安全に行うためのチェックリスト」を作る話をメインに進行します。苦心してチェックリストを作り、全世界的なテストにおいてこのリストが効果をあげたことが証明されます。ところが、

正直に白状すると、チェックリストなんて意味がないと思っていた。他の人ならともかく、私の手術にそんなものが必要なわけないじゃないかと。

だが、私は間違っていた。(略)つい先週も、五回の手術で三回助けられた。

200ページを超えるこの本のわずか数ページしかない最後の章、その冒頭の一節です。この章の日本語版のタイトルは「助かった!」(原題はThe Save)。実際に「助かった」例がこの一節の後、いくつか出てきます。

安全網って、普段は意識されません。それどころか面倒くさいもの、あるいは邪魔なものと認識されかねないものです。チェックリストのベストセラーを書いた著者自身でさえこうなのです。いかに意識するのが難しいかがわかります。

しかし、チェックリストの有効性は、命がかかる手術の現場で、ビルの建築現場で、飛行機の操縦席で、証明されています(あの「ハドソン川の奇跡」の話がこの本にも登場します)。命がかかるとまでは言わないけれど、普段の生活でも、子育てでも、大いに役立つような気がしています。

この項、続きます。

「拠って立つ処」のためのメインテナンス(3)

前回の続きです。

ストレスと適応障害 つらい時期を乗り越える技術 (幻冬舎新書)
岡田 尊司
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前回、ハマってしまったストレスからの脱却法として、受動的コーピングと、能動的コーピングがある、と申し上げました。今回は、後者。

能動的コーピングは、実際に行動を起こし、原因となっていることや周囲に働きかけることによって問題を解決し、ストレスを減らそうとする。自分の主張や考えをはっきり伝えることも大切な能動的コーピングであるし、人に相談したり専門家に助けを求めることも能動的コーピングの方法である。

能動的コーピングはこの本の最後の章で述べられていますが、私が印象に残ったのは「まず、言葉ありき」。

人が変化するとき、それに先立って変化しようとする意思を語るようになるということだ。言葉が変わると、行動も変わる。依存症とか引きこもりの人たちの治療をしていると、このことがよくわかる。

これは私自身の経験からも大いに賛同できる点です。妻が不調から回復するときには、必ずと言っていいほど「○○したい」という言葉が出てきます。言っている時点では不調が継続しているにも関わらず、です。私はこれまで1年以上ブログをやっている最中にも精神的にきつい時期がいくつかありましたが、「ブログを書きたい」と思ったらその不調の原因が消えたりもしました。

ただ、単に待っているだけでは変化を示す言葉は出てきません。やはり何らかの「きっかけ」が必要です。何かのイベント、気候の変化(暖かくなる)、生活環境の変化(子供が何か新しいことを始めたり、家族が緊急的なサポートをやったり)といったものです。

そのきっかけとの一つして筆者が指摘しているのが「仮定の質問」です。何らかの困難な点がもし消え去ったと仮定して、何がしたいですか? あるいは、何らかの困難な点がもし消え去ったとしたら、何が変わったからだと思いますか? と聞いてみて、そこを糸口にする方法です。

これはストレスからの脱却「前」に行うものとして述べられており、ハマれば非常に効果的かと思いますが、私の経験から申し上げると、脱却「後」に聞いてみるのも効果的なのではないかと思います。体調悪化の時期を何とかやり過ごした後に「何が変わったと思う?」と聞いてみるのです。もちろん回答は一つではなく、いくつか出てくるでしょう。

私も妻も、体調が良くなったり悪くなったりを繰り返すので、その時に自分が話した言葉を一部でも覚えていてくれれば、次の体調悪化時に役に立つかもしれない。回復したら「ああ良かった」で終わるのではない。振り返って、何が起こったかを自分の言葉で言ってみる。メモしたりすればなお効果的かもしれませんが、まず言葉で表現することで、メモをしなくても自分の脳に何らかのインプットが残るような気がします。

ささいな言葉の変化をとらえ、より良い方向に持って行く。そのためにはやはり日頃の感度を高めるメインテナンスが重要なのかもしれません。毎日何かをメモして日記に書きつける、というのも有効でしょう。でも、そう簡単にはできない。無理する必要もない。ただ、どこかにそんなメモを書き付けるスペースを物理的にも精神的にも持っておくだけで、何かが良い方向に変わるような気がします。

「拠って立つ処」のためのメインテナンス(2)

前回の続きです。

ストレスと適応障害 つらい時期を乗り越える技術 (幻冬舎新書)
岡田 尊司
幻冬舎
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この本では適応障害を深刻化させないための方策が、具体的な例とともに書かれています。学校、職場といった場面別でも説明されています。

ところが、どうやってもストレス発生を防げない場合がある。一番分かりやすい例が、子育てそのものが適応障害の要因となる場合です。学校や職場と違って家族をやめるわけにはいかない。拠って立つ処が少なくなることが避けられない。

では、どうすればいいのか?

この本では最後の2章を使って、はまってしまったストレスから脱出するための方策のさわりが書かれています。「受動的なコーピング」「能動的なコーピング」に1章ずつをさいています。

受動的なコーピングとは、何かストレスになることがあったときに<略>その出来事の受け止め方(認知)を適切なものにすることでストレスを減らそうとするものである。受動的なコーピングの身近な例としては、聞き流すとか、気にしないようにするといったものだ。

この受動的コーピングのひとつの手として、自分に自信を持って、人の言うことは気にするな、と筆者は指摘します。

自分が最善と信じる行動をとるためには、日頃から自分で判断し、行動する習慣をつける必要がある。つまり、周囲の評価や結果ばかりに左右されない生き方をすることになる。それは、心が折れることから自分を守ることだけでなく、自分らしい本来の生き方にもつながるのだ。

ここでも、メインテナンスです。日々、自分自身を見つめ直す。そして、私はこれを読んで、ネットを見すぎるな、と解釈しました。自分に自信がなくなるのは、単純に入ってくる情報が多すぎるからではないか、という気がします。知らなきゃヘンな考えを起こさずに済むのに。それにネットばかり気にしていては、自分自身をメンテする時間が取られてしまう。

ただ、そうはいっても子育ては難しいと思います。自分に自信がないので満足に子供に接することができない。そして子供からは不満のフィードバックが山のように来る。この悪循環をどう断ち切ればいいのか?

ここで思い出したのが、「救命用具」です。緊急時の救命用具は、まず大人がつけてから子供がつける、というのを聞いたことがあります。大人の安全が確保できないまま子供に救命用具をつけようとしてうまくいかずに共倒れになるリスクを回避するためです。
そのような救命用具、あるいは脱出手段を常に確保し、メインテナンスを忘れないようにすることが、最悪の手段を防ぐ第一歩のような気がします。

そして、もう一つ大事なことは、完璧主義にハマらないこと。

実際に完璧主義な人は、適応障害を起こしたり、うつになりやすい。百点を目指していると九十点でも、不満足な結果でしかない。<略>百点ではなく五十点で満足する。みんなから評価されることを期待するより、自分を評価する人もいれば、評価しない人もいて当然だと思う。

やはり適応障害は真面目な人がなりやすい、ということがわかります。サボりたい人が完璧主義なはずがないからです。例えば、ちゃんとした食事を用意したいのに、体が動かない。そこを無理してなんとかやろうとする。私の妻が何度もハマってしまう状態です。頭の中ではやりたいのに、体は(おそらく心も)拒絶している。

もともと私は妻の食事の質に注文をつけたことは一切ありません。しんどいことは、一目見ればわかる。私だけでなく、子供もわかっている。何もわからない乳児ならともかく、4歳位にもなれば「おかあさん、だいじょうぶ?」ぐらいのことは言えます。これは危険信号です。ただちに「救命用具」が必要な状態といえるでしょう。

この項、続きます(次回で最後です)。

「拠って立つ処」のためのメインテナンス(1)

もともとこのブログを始めた理由のひとつが妻の適応障害なので、こういう本にはしっかりと向き合わなければなりません。ずっと宿題で私のKindleに残っていました。

ストレスと適応障害 つらい時期を乗り越える技術 (幻冬舎新書)
岡田 尊司
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この本は、長年適応障害に向き合ってきた医師による、適応障害の入門書です。適応障害の基礎知識、学校や職場などの場面における応用編、最後に適応障害からの脱却、といった構成であり、適応障害になった本人はもちろん、適応障害に向き合う人向けに書かれています。

さて、「適応障害」の特徴を手短に言うと

一言で言えば、居場所がなくて、あるいはプライドを傷つけられ、心が折れかかった状態だと言えるが、適応障害の段階ではまだ復元力があり、不適応を起こしている環境から離れたり、ストレスが減ると、速やかに回復するのが大きな特徴である。

同じ環境(の変化)であっても、適応障害を起こすか否かは、個人差が大きいということである。その人にとっては非常に苦痛な環境も、別に人にとっては快適であるということもしばしばだ。

こうなります。文字通り、自分自身と環境がマッチしないために、いろいろなことが起こる。年齢性別問わずに起こる。サボりたい人がわざと起こすのではない。体が反応してしまう。逆に責任感の強い人にも「ストレスのオーバーフロー」という形で起こる。今まで全く無縁だった人が、ささいなきっかけで起こってしまう。要は、だれでも起こりうるわけです。私もいつ食らうかわからない。

ただし、適応障害は、原因不明の「難病」ではありません。起こるとき、そして治るときに、必ず予兆があります。なぜなら適応障害は自分と環境との相互作用なので、避けがたい突発的なアクシデントを除けば、いきなりは重症化しないためです。

したがって、まずやるべきは、日頃のたゆまぬ「メインテナンス」であると筆者は指摘します。対症療法に至る前の予防です。投薬以上に重要です。そしてこのメンテナンスは二つの意味があるような気がします。

ひとつは、環境や自分や家族の影響度合いを絶えず確認し、適応障害を起こしかねない環境変化を防ぐこと。これは本人はもちろんのこと、向き合う家族にとっても必要だと思います。日々気をつけなくてはならない、というのはかなりしんどいです。でも、重症化してからのフォローは本当に大変で、その苦労に比べればマシかもしれません。

もうひとつは、自分をしっかりと持つ「安全地帯」を築くこと。「安全地帯」は1日にしてならず。家庭は言うまでもなく、家庭以外の安心できるコミュニティに自分を居場所を見つけるのは、どうやっても1日ではムリです。毎日何時間もかけるようなものではないにしろ、やはり日頃のメンテナンスが必要になる。

 

結局、大切なのは「拠って立つ処」だと思います。前者はこれを失うことで発生するストレスを抑えるということ。後者はこれから築く、あるいはすでにあるものを守る話であり、そして、拠って立つ処が、自分の存在価値にもつながる。

しかし、うまくいくとは限らない。その「拠って立つ処」が問答無用で失われるケースがままある。典型的なのが、子育て。子どもたちの世話に追い立てられて、気づいてみれば失っている。意識的に「これは止めよう、止めざるをえない」と言う話ではなく、いつの間にかやらなくなってしまった。これは、実際に子育てしないと実感できない感覚だと思います。さて、どうしたものか?

この項続きます。