「デスマーチ」を生き残るために(2)

前回の続きです。

ソフトウェア開発とはほぼ無縁の私がこの本を通読することができたのは、個人的に興味のあるテーマだったことのほかに、

「このスーパー・ウィジェット・システムは、何が何でも、絶対、必ず、1月1日までに完成させねばならない。でないと、世界が破滅する」。この指令が何段もの社内官僚の層を通過すると、どんどん尾ヒレが付いて、次のようになる…

こんな感じのちょっと皮肉めいたユーモアが、ほぼ全編にわたってまぶされていたからかもしれません。

さて、筆者がデスマーチを生き残るために最初に注意すべき点は「政治」である、と指摘します。プロジェクトの中身ではありません。上記の引用も、この「政治」について書かれた一節です。

ソフトウェア開発でも多種多様の関係者がいるのでしょうけど、子育ても同様です。実家、親類、先生、ママ友。自らの「プロジェクト」の方針に対し「味方」となってくれる人は誰か?常に気を配らなければなりません。同じ人が(本人の意思とは関係なく)いつの間にか味方から敵に変わってしまうことも、残念ながらありえます。

さらには、SNSを含むネットに流れる有象無象の意見も、その影響力はバカになりません。子育ては、ソフトウェア開発よりも変動要素が大きい(文字通り24時間何が起こるかわからんのです)ゆえに、「政治」は大きな問題点かもしれません。

もちろん影響力を最小限にする、つまり人付き合いやネットとの接触を減らす、という選択肢もありえますが、昨今の子育てではあまりお勧めはできません。親だけで全てのミッションをこなすのは物理的に不可能と言っていい。ただ、子供の成長に合わせて、近しい「関係者」をこちらから意図的にシャッフルすることは、考慮すべきでしょう。

本書の後半では「時間の管理」についても一章をさいて述べられています。ただ、ここでは管理ツールの名前が出てくるわけではなく、なぜ無駄に時間を使ってしまうのか?とついて触れ、あの『7つの習慣』にも登場する「重要性/緊急性」の4象限も登場します。

また、物事の重要性/緊急性を決定するのは、プロジェクトの中身もさることながら、関係者との「政治」も深く関わる、と筆者は指摘します。関係者がどーでもいいことで緊急性をがなりたてるとプロジェクトに余計な停滞が発生する。残念ながらよくある話ですが、その面でも「政治」に気を使うことは、時間の有効な使い方に影響することがわかります。

そして、筆者が最後に強調した一節

それよりずっと重要なのは、生き残ることだ。我々が目指すデスマーチ・プロジェクトは、上層部を驚嘆させる日程と予算で進捗し、エンドユーザーに輝かしい結果を提供するものだが、我々は、これらすべてを健康、才覚、家族、ユーモアのセンスのどれも損なわないで行うべきなのだ。それができてこそ最高だ。

なによりも、生き残ること、できればユーモアのセンスを忘れずに生き残ること、これが大事なのだと思います。

全ての「プロジェクト・マネージャー」のみなさま、笑って、良いお年を。

「デスマーチ」を生き残るために(1)

生き残れば十分なんです。少なくとも、最低条件ではないんです。

私はIT業界に勤めているわけではありません。ただ、ソフトウェア開発のプロジェクト・マネジメントには若干の興味がありました。子育てや自分の人生構築に何らかの参考になるかもしれない、と思ったからです。

この本は全ての子育てパパにオススメできる、というわけではありません。ソフトウェア開発の専門用語が頻発し、私も専門用語はあまり理解できていないと思います。ただ、1944年生まれの著者が、巻頭に

4世代にわたり家族が増えたことは、
デスマーチ・プロジェクトで、
何が重要で、
何が最優先すべきかを
適切に決める上で、
最大のヒントになった

と書いたのを見て、あ、これは期待出来る、と思いました。

まず著者は「デスマーチ」の定義から書き起こします。幾つかの定義の中で、こういう項目があります

通常必要な人数の半分以下しかエンジニアを割り当てないプロジェクト

二人の子供を持つ父親として言わせていただければ、両親の片一方が不在がち、あるいは病気がちで、子供が二人以上いて、かつ「実家」の定常的支援が得られない子育ては、ほとんどこれに該当する、つまり「デスマーチ」である、と言っていいと思います。現代の子育てにおいて、かなりの核家族は「デスマーチ」にならざるをえないのです。

その一方で、著者はこうも書いています

私の結論は、デスマーチ・プロジェクトは、常態であって、例外ではないというものだ。

異論がある方も多々あるかと思います。ソフトウェア開発と子育てを一緒にするとは何事か?と思う方もおられるかと思います。ただ、著者はデスマーチ・プロジェクトに反対しているわけではないことを強調し、その上で、デスマーチ・プロジェクトを成功させ、生き残るために何をすればいいか、に焦点を絞ってこの本を書いています。

そのために、これだけは覚えておいてほしい言葉として「トリアージ」をあげています。医療におけるトリアージの概念を聞いたことがあるかもしれません。特に救急医療において、限られた医療資源をどの患者さんにどの程度つぎ込むか、という難しい判断です。これを、プロジェクト管理にも応用するのです。乏しい資源(人、時間、お金)を何につぎ込むのか?

私が関係したほとんどすべてのデスマーチ・プロジェクトでは、システムの要求項目を、トリアージスタイルで、
「やらねばならぬ(must-do)」
「やったほうがいい(should-do)」
「やれればできる(could-do)」
の三つに分けるのが常識となっていた。

この三つの分け方は、単純ではありますが、私にとっては新たな発見でした。重要度を10段階に分けるよりよっぽどわかりやすいです。そして、すべての要求項目が「やらねばならぬ(must-do)」に入っている時点で、すでにおかしい、と容易に気づくこともできます。

もちろん子供に対して出来る限りの事はしてあげたい、というのは自然な親心ですし、残念ながらそれを無理に押し付ける人も少なくありません。でも、トリアージスタイルで、できないことはできない、と判断することは、ソフトウェア開発よりはるかに複雑な子育てにおいて、とても大切なことだと思います。

この項、続きます。

感謝の種、考えの種(2)

前回の続きです

かーそる 2017年7月号
かーそる 2017年7月号

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前回、この本のタイトルの前に「文章を」という言葉が省略されている、とわざわざ書いたのはわけがあって、これで「メモを」が前に来たら、きっと異なる話になっただろうな、と思ったからです。

Hiroshi Nagai ロルバーン ポケット付メモ M

私が今使っているプライベート用のメモ帳はこれです。ズボンのポケットにギリギリ入る大きさで、紙質も悪くなく、5mm方眼なので、書き方にあまり制約がありません。しかも、表紙がモノトーンではなく、ポジティブな感覚を受けます。

以前このロルバーンと似たサイズのモレスキンに日記を書いていたことがありましたが、長続きしませんでした。毎日家事育児に追われる身としては、毎日必ず家で落ち着いて書けるとは限らない。かといって通勤電車の中で立とうが座ろうがモレスキンを書くのは物理的に無理があり、日記はいつでも断片的にでも書けるデジタルツールが私にはあっているようです。

今使っているこのロルバーンは、日記向けではありません。カフェのようなとにかく落ち着ける場所で、思いついたことを書く。しかもたいていはこれからやりたいことについての箇条書きが多いです。このブログで書きたいことも書いています。毎日書いているのではありませんが、ゆるいライフログみたいなものかもしれません。

そして、このメモを書く際のルールを二つ作っています。一つは、このメモを書く際はスマホは見ない、ということです。書いているうちに調べたいことがあっても、あえてその場では見ない。そうやって、メモに集中するようにしています。

もうひとつ、このメモは絶対に他人には見せません。自分のためだけの伝言、自分のためだけの断片を書く自分だけの基地、と考えています。そういう位置付けにしてこそ、落ち着いて書ける。家は落ち着けないので(家はある意味常に戦場)、家の中で開くことはほとんどありません。なので、プライベートのことしか書かないのに、このメモの定位置は仕事鞄の中です。

こうやって、書きたい動機を考えていくと、書きたい道具だけでなく、その置き場所まで定まっていく気がします。また、そうやって動機を突き詰めて考えた道具にはそんなに簡単に飽きがこないのではないか、と思っています。もっとも、このロルバーンはたまたま「LOFT」で別の買い物をしている時に見つけたので、そういった偶然も必要かもしれません。

私の書く動機は、感謝の種と考えの種を書くこと。そして感謝の種も、考えの種も、心が落ち着いている時こそ書けるものだと思います。そんな場を提供してくださる道具の皆さんにも感謝したいです。

感謝の種、考えの種(1)

やっと、これを読む余裕ができるようになりました。

かーそる 2017年7月号
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このタイトルは、この前に「文章を」という言葉が(おそらく意図的に)省略されている、と感じました。「文章を」というよりは「ブログを」といった方がいいかもしれません。書いている方々がブロガーなので当たり前といえば当たり前ですが、道具と動機をいろんな意味で深く考えれば、ブログを含む「文章を書くこと」が長続きできるかもしれません。

さて、私がこのブログを書いている動機が、現時点では、3つあります。

一つは、自分を解き放つため
もう一つは、自分を律するため

一つは、日頃仕事家事育児に追われている自分を解き放つため。前回の「かーそる」のコメントでも私は似たことを書いているような気がしますが、今回も、いっきさんの言葉に深くうなずきました。

だから私は、もう長いこと「本当の意味で自分を喜ばせることができるのは、世界の中で自分だけだ…」という思いの中にいる。

そして、いろいろなことを考えながら書いているうちに自分自身が変わっていく、書き始めたときには思ってもいなかったことに気づく、という経験を何度かしています。編集長の言葉です。

ある種の文章の書き方をするとき、<自分>は変容する。その書き方のことを、私は執筆と呼びたい。

「文章を書くこと」は、幾多の趣味と違って、どこか特定の場所でしかできないことではない。特殊な道具も必要ない。最低限の時間と、空間と、道具さえあれば、たいていできる。自分を変えることさえできる。こんないいことはない、と考えたから、このブログも続いているような気がします。

一方で、ある時点からこのブログは2週間に1回書く、と決めています。スタート当初は勢いに任せて毎日書いてましたが、やはり周辺の環境を考えるといろいろ無理があり、だんだん間隔が長くなっていきました。それでも、自分にとって適度に続けられる頻度が2週間に1回である、と気づいた時、逆に絶対これ以上は延ばさない、と決めました。

私は自分のプライベートの予定を立てる時、まず抑えるのが、このブログの新しい記事を書き始める日程なのです。やりたいことや、やるべきことがどれだけあったとしても、これだけはちゃんとやる。そして、このブログを律することで、なんとか自分を、自分のプライベートを律することができているような気がします。

で、動機がこの二つだけなら、日記でいいではないか?という話かもしれません。ではなぜ全世界に向けて文章を公開するのか?それが、3つ目の動機

書くきっかけを与えてくれた人への感謝の意を表すため

このブログは、私の妻や友人等には一切その存在を知らせずに書いています。それは第1の動機に関連するのですが、妻や友人等に知られるリスクを冒してでも、日記ではなくブログにした理由は、この3つ目の動機があるからです。

書くきっかけを与えてくれた人、つまり自分を解き放つきっかけを与えてくれた人に「ありがとう」と言いたい。それだけなんです。うまくいけば、本人とやりとりができるかもしれない、という想いもあり、実際それはかなり初期の段階で達成されてはいるのですが、それは直接な動機ではなく結果であって、書いて公開した時点で、もう動機はほぼ達成されているのです。

そして、感謝の種を少しづつ植えることが、自分を解き放ち、自分を律することにもつながっているのかもしれません。

この項、続きます。

我に返ること、我に帰ること

この夏に、一つの大きな決断を下しました。

前回のエントリ時では、個人的にいろいろ苦しい状況下にありました。というより、長い期間少しづつ積み重なってきたストレスの大きさに気づいてハッと我に返り「これは大変だ!」とある日突然実感した、といった方がいいかもしれません。

思えば、いろいろ抱え込んでいました。家族のこと、コミュニティのこと、仕事のこと。仕事のことは以前から意識して抱え込みすぎないようにしていたのでいいのですが、特に家族のことを抱え込む負担が増大していた、と今にして思います。

ただ「適正量」がわからなかった。これは3つの意味があります。

1、自分にとって深刻な負担にならない量
2、家族に深刻な負担が発生しないように、自分が抱え込む量
3、世間的に見て「これぐらいはやらんといかんでしょう」と思われる量

3、はおそらくクリアしていると思います(確たる自信はないのですが)。問題は1、と2、のかねあいです。妻の適応障害をフォローすべく2、のレベルを高く見積もっていました。すると、いつの間にか1、を超えていたのです。

また、家族の動きと某コミュニティの動きが密接に関わっているという特殊な事情もあり、コミュニティを含む多方面に向けて「もういい加減にしてくれ」と叫ばざるをえない状況になってしまいました。

いい加減にしてくれ、はわかった。じゃあ、これからどうするんだ?と思ったときに、このブログが、後押ししてくれました。

〈混ぜるな危険〉R-Style

これは、決定論・運命論でもなく、かといって自己が世界を支配するという話でもありません。どちらかと言えば、その領域を〈行ったり来たり〉するものなのでしょう。
自分のリストを作ること。それはつまり、他人のリストを混ぜないことです。
自分の人生を生きていくために、これ以上必要なことはないでしょう。

上記の1、と2、の間でtodoが混ざる。しかし、1、の限界を超えると自分が崩壊し、いきなり2、がゼロになる。これが家族にとっていいはずがありません。だから改めて自分のリストの確立すること、つまり「我に帰る」ことが必要だ、と感じました。

妻がよく言います。体調がきついから、代わりにやってくれ。これは、今までの私にとってほとんど「命令」でした。自分自身の体調や気分に関係なく、無条件かつ最優先に行うべきものでした。妻がどう思っていたかわかりませんが、結果としてそうなっていた。

しかし、申し訳ないけど、今後はもう無条件かつ最優先ではない。妻の負担を増やさず、私の負担も(大きくは)増やさず、かつ家がなんとか回る方策が最優先である。そのために、家のルールを変え、私の「リスト」を変える決断を下しました。

まずは自分のリストを整えること。これがシンプルに自分の人生を生きていく第一歩かもしれません。

混ぜるな危険、止まるな危険

正直申し上げて、今はタスク管理ができる精神状態にないのですが、

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そうなる前に、この本を読みました。

最近、とある理由により、精神的にとても不安定です。すごく簡単にいえば、心が折れた状態。なにもかも放り出してエスケープしたい状態。当然、こういうときは、頭の中はぐちゃぐちゃです。だから、正直タスク管理はやりたくないので、最低限のルーチンだけを回しています。

ただ、とにかく落ち着きたい、と思ったので、第2章の「リストの性質」だけを読み返していました。これはまさに頭の中を落ち着かせるための切り口をいろいろ書いてあるところだからです。そこにある重要な一説。

「今からすること」リストに思いついたことをどんどん追加してしまうと、それは「今からすること」リストではなく、「やるべきこと」リストなってしまいます。リストが変質してしまうのです。リストを切り分ける行為には、それを防ぐ意義があります。ここでも<混ぜるな危険>の原則が生きています。

そう、混ぜるな危険。
頭が落ち着いているときでさえ、ありがちなリストの混乱と変質。でも、こんな最悪の時の方が混ざらないのかもしれません。「早く食べて、寝よう!」という究極のクローズドリストです。あとは布団かぶってエスケープ。頭のなかで行きたいところリストをどんどん追加していく。まさにオープンリスト。といっても、メモをする精神状態にはないのですが。

ところで、「1日3回特定の薬を飲む」という行為は、間違いなく「やるべきこと」です。これをしないと場合によってはQOLの低下に直結します。

一方、それとは別に「頓服薬」があります。たとえば頭が痛くなったら飲む薬、と説明されます。ただし、痛ければ飲めばいい、とも限りません。私も妻も処方されている偏頭痛の薬(レルパックス)はひと月に10錠までしか処方できない、と医者に言われています。考えて使わないといけない。

こんな感じで「やるべきこと」と「やるべきでないこと」と「やりたいこと」が拮抗することが、ままあります。これは混ざる。絶対混ざる。正解はありません。でも、とにかく決めないといけない。あるだけの判断力とリソースと運に頼るしかない。しいて一つだけあげるとすれば、なんらかの優先順位でしょうか。ミッションステートメントのような高尚なものではない、本能的な思いつき。その根底に、頭の中の「リスト」があるように思います。

確かに頭の中が混乱するのは危険なのですが、現状のまま、足がすくんで判断しないことは、もっと危険なような気がします。こんな精神状態で「走り続けろ」というのは酷です。でも「止まるな」ということなら、できるかもしれません。

休養という名のタスク

夏休み。
子供たちの世話が一層大変になるこの時期に、逆に「休もう」という話で恐縮ですが…

残念な人類のためのタスク・スケジュール管理術:発達障害就労日誌

先日twitterで取り上げた方のブログです。この方自身がADHDで、読者もADHDの方を想定されたものですが、ADHDに向き合う人、私を含めADHDの方のタスク構築に向き合う人にとっても、非常に参考になります。このエントリで最も強調しているのは、

まっさらの手帳、あるいはインストールしたばかりのアプリに最初に記入するべきは、「最も重要で」「最も実行の容易な」タスクなんですよ。これを軸にして予定を立てるべきなんです。はい、具体的にそのタスクとは何か。休養です。何もしないというタスクです。

私もよく妻に言います。まず、あなたが休む日を取って、と。ところが妻はこれを実行しません。それには、いくつか理由が考えられます。

まず、妻が専業主婦であり、働いている私よりも時間の自由がきく、ということ。これは普通の専業主婦ならその通りですが、妻は普通の専業主婦ではありません。すぐに頭の中が混乱し、子供達を学校に行かせるタスクを終えた時点でかなりの気力体力を消耗し、かつ最低週1回はなんらかの通院が必要です。あっという間に時間が過ぎる。一見平日は容易に「休養」が取れそうなのに、結果的にできない。そして、常に子供がいる休日は言わずもがな。

もう一つは「私よりもあなたの方が大変だから先に(休みを)取って」。日本人の美徳、「譲り合い」の精神です。あの東日本大震災で被災された方が「もっと大変な方がおられる」と静かにおっしゃっていた光景を何度も目にしました。これはこれで(エゴ丸出しよりも)とても素晴らしいことなのですが、これが過ぎると、逆に「物事が進まない」という弊害が発生しかねません。そこで、そう言われたら、私は遠慮なく休むことにしています。でないと、妻が休まないからです。

人間は休日が大好きなくせに、いざスケジューリングをする段になるとそれを一番おろそかにします。しかし、このガンガンスマホが鳴りメールが届きラインがピンピンいう時代に、「休養を取る」というのは立派なタスクです。そこには明文化された意思の力が必要です。

そう、意志の力。「休養」というタスクは、実行は容易なのに、設定はとても困難です。特にやりたいことがいっぱいあるのに、そのやりたいことを押しのけて空白の時間を設定するということは、ADHDでなくても、実はとても勇気がいることなのでしょう。

そういう私も「休養」は滅多に取れません。家は休息の場所ではなく、常に家事育児に追われる「戦場」です。子供に対して、あれやれこれやれ、と言っている一方で、こちらが何もしないと「何サボってるの?」と言われかねない。だから子持ちの親御さんはなおのこと「休養」が取りづらい。これは本当に実感しています。

ただ「休養」というタスクは、「できるときにやっておかないと、いつまでたってもできない」という感覚に対する抵抗ではない。むしろ逆で、「休養」を意図的に設定することで実行可能な時間が制限され、本当にやりたいことが無意識にしろ選別される。

「子供に対してできる限りのことをしてあげたい」という思考に対する裏切りでなく、最終的には家族全員の心の平静という最も高い価値を産むもの。「休養」というタスクは、「サボる」というネガティブな感覚とは逆に、Quality of Lifeを高める近道の一つなのかもしれません。

どこまで削るか、どこまで言うか

私がワークライフバランスをなんとか維持してこれた理由が、これを読んでなんとなくわかってきました。

私はこれまで多くの上司に仕えましたが、このようなまともに「阻害する」タイプには会わなかったような気がします。職種によるところも大きいのですが、一つの大きな理由は、最初から自分の仕事を「制限」し、それを明確に宣言したからかもしれません。

ただ、問題は二つあります。どこまで制限し、どのように宣言するか、です。

私がワークライフバランスを維持できたのは、一つには単純に仕事の分量を減らしたからですが、なんでも減らせばいい、というものでもない。

自分が生活するための最低限のライン、そこまでなら減らせるし減給も受け入れられるライン。そこを探るには案外難しいような気がします。それこそ微妙な「バランス」が必要です。これが今のところたまたま上手くいったから、今の生活が成り立っている。仕事を増やすのは簡単です。なんでも言われたことを引き受ければいいのですが、減らすのは難しい。単にやめればいい、という問題ではない。

私の勤めている会社では、年度初めに各人の「目標」が設定されます。これは上司が勝手に決めるのではなく、まず自分が書いて、上司と相談の上で決めることになっています。ここで、ある大枠が決められる。これ以上のことはやらなくていい。もちろん諸事情で「これ以上のこと」をやる可能性はあるのですが、まず年度始めにベースラインを設定しておくことは、とても大切なことだと思います。

もう一つは、これを「明確に宣言」すること。これも言えばいいという問題ではありません。労働者の権利として、やった分にはお金をもらう。やらない分にはもらえない。その原則に従っていればやらない理由はなんだっていい。というのは、言い過ぎかもしれません。単に遊びたいから仕事を減らしてください、では論理的にはともかく、感情的には受け入れがたい。

さらには、話を聞く側の人(つまり管理者側)が「戦線拡大」つまり成長するのが当たり前というマインドだと仕事を減らすことを単純に理解できない、という反応も考えられます。しかし、そういう人も今後は減るかもしれません。というのも、幸か不幸か、話を聞く方も親の介護とかなんとかで「戦線変化」の問題は身近に感じているはずです。私の場合のように、妻が病弱で家を回すのが大変なんです、というと、これは人生における「戦線変化」です。仕事の面では縮小だが、家庭の面では拡大している。しかもその拡大/縮小の状況は常に変化している。ここにも「バランス」が存在する。

それでもとにかく、まずは言わないことには始まらない。理由は一通り整えた上で、シンプルに、できないんです、と。それこそが強者の論理と臆病者の論理を越える第一歩かもしれません。

「余裕」がわからない社会、「違い」がわからない社会(2)

前回の続きですが、単にこういう社会はダメだ!という批判しているわけではありません。そもそも自分自身も今の社会を作り上げた一人ですから、反省の意味も込めて書いています。

ところで、前回

「誰それができたのだから誰でもできるはず」と思う人が多い社会

と申し上げました。これは「あなたは、私とは違う」、つまり「違い」の認識ができにくい社会である、とも言えます。「違い」の認識ができにくい、というのは、一つには日本がほぼ単一民族だから、というのもあるのでしょうが、それよりも、ただ単に「違い」を受け入れることのできる「余裕」がないからではないか、と思っています。

また、こんな社会になってしまったのは、社会を構成する人の大半が「余裕」のある社会そのものを経験していないのも原因のひとつではないか、と思っています。戦後の混乱、高度成長期、そしてバブル。「右肩あがり」ではあるが、しんどいのが当たり前と思っている。しんどくないのは罪とさえ思っている、とは言い過ぎでしょうか。もちろん、すべての責任を、そういうことを経験してきた年長者に押し付けるわけではありません。

そう、追い詰めないこと。単に余裕がないだけなら、わざわざ追い詰める必要がない。そんなことする時間があるなら、休んで気力体力の回復に当てればいいのに、わざわざやってしまう。これは「違い」に対する本能的な拒否反応から来ているような気がします。

自分とは異質のものなり人なりがいきなり目の前に現れると、本能的に防御の姿勢を取る。これはしょうがない。逆に言えば、異質のものに対する「慣れ」があれば、そうはならない。で、この「慣れ」は誰かから与えられるものではなく、自分で獲得しなければならない。もちろん幼少時には親がその環境を整えてあげた方がいいでしょうけど、ある程度歳をとれば、そうもいかない。「慣れ」は統一的な規格ではなく、個々人が持つ距離感のようなものだからです。

一方で、「慣れ」の獲得は相互作用ですから、「異質」側の行為も問われる。攻撃されれば怖い、という気持ちはもちろんわかるのですが、ひたすら隠すだけでは「慣れ」てもらえるわけがない。その意味で、今回のNスペのような、発達障害の当事者側からの積極的な発信は必要であり、とても勇気のある行動だと思います。こんな番組普通の人はわざわざ見ないよ、という声も多々あるようですが、それでも地道に繰り返すことでしか「慣れ」は獲得できない。

異質であることを、隠すのではなくさらけ出し、ある種当たり前として認知できる社会。それは、特にこの日本では、誰でもメディアになれる時代だからこそ近づいているのかもしれません。

「余裕」がわからない社会、「違い」がわからない社会(1)

先日のこの番組の影響で、私のTwitterのタイムラインが沸騰しました。

NHKスペシャル|発達障害 ~解明される未知の世界~

私のフォロー先(発達障害の当事者も少なからずいます)の評価は、概ね好意的に見えました。たしかに突っ込みどころはあるけど、まずはこういう番組がNHKスペシャルとして製作されて、不特定多数が見た、という事実だけでも大きな前進。私も、発達障害の当事者ではありませんが、同意見です。

そういった議論の一方で、いろいろ考えがタイムラインを流れていったのですが、その中で一番感銘を受けたのが、これでした。

これは、軽度のADHDである妻を毎日見ており、以前適応障害に関するエントリーを書いた私にとって、とても重要な指摘です。極言すれば、どれだけ脳機能に障害があっても、社会と折り合いをつけることができれば「生きづらさ」は感じず、あまり不幸にも思わない(そういうフリをしているだけ、であれば別)。

ところがADHDの程度が軽くても、ママ友との付き合いがきついとか、自分の頭の中がどうやってもまとまらなくて生活していくのに苦労する、という状況であれば、医師の正式な診断があろうがなかろうが、対処が必要な問題です。その生活は当然「社会」と密接に関係していて、社会とどう向き合うか、という問題に帰結します。

テクノロジーの発達等により人々が受け入れることのできる「総量」はたしかに以前より増えたけれど、社会が求める「総量」の増加は、それを上回っているような気がします。特に「誰それができたのだから誰でもできるはず」と思う人が多い社会では、これが顕著に出る。

自分たちで勝手にレベルを上げて、自分や他人の首を絞めにかかる。これはさすがにヤバい、と関係者一同が実感してやっと変わった典型例が、ヤマト運輸の昨今の対応だったような気がします。最低週に1回はヤマトさんや佐川さんのお世話になっている私にとっても、身近な、そして反省すべき事例でした。

社会の個々人が生活の質を上げようとして、社会に対して求める「総量」が大きくなると、シンプルに考えれば、社会の人口が増えない限り、逆に社会の構成員でもある個々人の余裕がなくなっていきます。そうすると、今までなんとか折り合いをつけることができた人がドロップアウトを余儀なくされる。これはどう考えても本末転倒です。

もちろん、質を下げて昔に戻れ、と言いたいのではありません。ただ、やはり色々な理由で、私たちは社会に対して何かを求め過ぎていたのだろう、という気がします。新たなテクノロジーが生まれて、それを試しに使ってみて、それを生活の質の向上の糧にするのはいいとしても、そこで達成された新たなレベルを、ありがたいものではなく「当然のもの」として認識された時、社会が少しずつおかしくなっていくような気がします。

この項、続きます。