自尊心をくすぐるもの、自制心を崩すもの

この本が、このブログのネタになるとは、思ってもみませんでした。

ブーメラン 欧州から恐慌が返ってくる (文春文庫)
マイケル ルイス
文藝春秋 (2014-09-02)
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ほとんど気晴らしために手に取った前著「世紀の空売り」の読み応えがあったので、その続編にあたる本書を読んでみることにしました。主題はリーマンショックに続く欧州金融危機。

「世紀の空売り」は、どことなく語り口にエンターテイメント的な感じがする(だから映画にもなったのでしょう)のに対し、今作はかなり落ち着いた、というより若干沈鬱な印象を受けました。

私は、欧州金融危機とは、お金のことに真面目とはいえない、ギリシャを始めとする南欧諸国を、他の国がいやいやながら助けている、という構図だと思っていたのですが、その認識は大間違いである、と著者は指摘します。アイスランド、アイルランド、ギリシャ、そしてドイツ。それぞれの国、あるいは国民性にこの危機を招いた要素があり、それが国によって明らかに異なることを映し出します。

この本を読んで私が関心を持ったのは、国によって大きく異なる「自尊心」と「自制心」の持ち方でした。

自尊心は人間であれば必ずといってもいいほど持っていると思います。(Aならかなわないけど)Bなら誰にも負けない、という心。私は「スペシャル」である、という心。こういう心を持つこと自体は問題なく、ある意味必要でさえいえるのですが、(私を含め)大半の人がよくわからない金融の話で自尊心がくすぐられると、大変なことが起きる。まして、もともと人間が本能的に溜め込もうとする「お金」の話ですから、問題は複雑です。

お金のことで自制心を失う問題は、単純に「うまい話に気をつけろ」という問題だけではないような気がします。一つにはバブル当時のように、周囲のみんなが「うまい話」を信じた状態で自制心を保てるか?ということ。もう一つには、バブルでなくても、ネットには自尊心をくすぐり自制心を失わせる情報がいくらでもある、ということ。だからといって、情報を遮断すればいいという話ではなく、事実上不可能です。では、どうすればいいのか?

「自己規制を拒むのであれば、我々を規制してくれるのは、環境と、環境が我々の権利を剥奪していくその過程だけです」(略)言い換えれば、意味のある変化を起こすには、必要量の苦痛を我々に与えてくれる環境が欠かせないということになる。

本書で登場するある学者の指摘です。この指摘をリーマンショックを重ねあわせた時、自制心を失った先にあるものは、相当にきついハードランディングを連想してしまいます。

一方で、多くのイノベージョンはある意味自己規制を突き抜けた先にこそある。リーマンショックはCDSというとんでもない金融商品のイノベージョンによって生まれたわけですが、逆に人々の幸福に資するイノベージョンも同様です。

私たちがみんなすごいイノベージョンを発明する必要がないにしても、「必要量の苦痛」の経て得られる変化、そしていい意味での自尊心の進歩は、自制心の適度なコントロールの先にあるのかもしれません。

How might we…

「今日をプロトタイプと考えよう。さあ、何を変える?」

クリエイティブ・マインドセット 想像力・好奇心・勇気が目覚める驚異の思考法
デイヴィッド・ケリー トム・ケリー
日経BP社
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この本は、私のような、いわゆる「クリエイティブ系」な職についていない人を含むすべての人が、「想像力に対する自信(クリエイティブ・コンフィデンス)」を発揮できるようにするためのガイドブックです。

著者によりわざわざ「日本のみなさんへ」という前文があり、そこには日本人に対する心からの応援が書いてあります。世界5か国5千人のアンケートで、日本以外の国の回答者は日本が世界で一番クリエイティブだと言っているのに、日本人は自身が最もクリエイティブだと回答した割合は最低だった。でも、実際はそんなことはないだろ?日本人はもっと自信を持っていいはずだ、と著者は言っています。

もしかしたら、私たちはクリエイティブという言葉を誤解しているのかもしれません。iPhoneを発明することだけがクリエイティブではないはず。誰でも自信を持って、自分の人生を、世界を、変えることができる。ポジティブすぎるかもしれないけれど、著者はそう言いたいのだと思います。

さて、その自信をつけるやり方は、実にシンプル。とにかく、毎日、実践あるのみ。ほんの少しでもいい。何かを作って、何かを変えて、結果を見て、次に進む。それだけです。その具体的な手法や考え方が、この本には満載されています。

その導入編が「恐怖への克服」であることはとても示唆的です。とにかく何か新しいことを始めることに対する恐怖や不安は誰しもが持つことです。特にここ日本では、何か「変わったこと」に対する世間の目は常に批判的です。小さい頃、友達に「その絵へたっぴ〜!」と言われただけで絵の才能を放棄する、というのはよくある話ではあるが、あまりに惜しい。だから、何か突拍子もないことをやって、それを周りの人々に受け入れられるようにするには、それなりの作戦が必要かもしれません。

その幾つかの作戦の中で、特に気に入った言葉が二つありました。一つ目が「カラオケ・コンフィデンス」です。そう、日本が世界に誇るべき文化であるカラオケは、人々にクリエイティブ・コンフィデンスをも与えるきっかけを持ちうるものなのです。なぜ私たちは、ああいう場ならマイクを持って恥ずかしげもなく歌うことができるのか?を考えれば、自分が変わるヒントがあるかもしれません。

もう一つが、タイトルに挙げた “How might we…” です。私たちは、どうすれば〜できるだろうか?なんでも否定するのではなく、仮にこうしたら、私たちはこのようにできるかもしれませんよね?と問いかける。

主語がyouでもIでもなく、weであるのがポイントです。君はこう変えるべきだ、と言われると、誰でも本能的に抵抗する。私はこう変えたい、というと、恐怖感が増す。日本語だと必ずしも主語を明示しないので感覚が異なりますが、とにかくいろんな意味でハードルやガードを下げやすい言い回しだと思います。

冒頭の一文も、この本の中にあった一節です。いかにもプログラマっぽい、いや、ものづくりっぽい言い方ですね。1日1日は、過ぎていくのではなく、作り出していくものなのかもしれません。

ルーチン:ほんの少しのコントロール

あるメルマガに、こういう一文がありました。

自分の人生を生きたけば、自分にそれがコントロールできないことを受け入れなければなりません。ままならないこと。それが人生の特徴です。

そうですね。私の場合は、特に冬から春にかけて、そう感じます。家族の誰かが、ある予定を立てる。その後体調不良となり、ドタキャンする。さらにはそのフォローのため、予定外の行動が発生する。その影響が将棋倒しのように家族全員に波及する。予定を立てなきゃいい、という問題ではない。暮らしの中で必ず発生するルーチンすら実行できない。その実行のために突発の年休が必要な場合もある。

不思議なことに主要因がコロコロ変わるのですが、とにかく上記のようなことが毎年起こる。そしてあの一文を実感するのです。

しかし、これは精神的にかなりつらい。全てを完全にコントロールしようとは思ってないし、できないことはわかっている。でも、いくらかのコントロール感は持っていないと、自分を保つことができない。少なくとも私はそう思います。そんな私がコントロールを失って倒れたら、家庭が崩壊しかねない。それを防ぐにはどうしたらいいか?

そのとっかかりとして、ほんの少しのコントロールを持つための手段として、最近思いついたのがその「ルーチン」の把握でした。

以前こういう記事を書いたことがありました。あれは年間ルーチンの一部分を見渡すことでコントロール感を持とうとする動きでした。ある日、これを年中やればどうなるか?と考えたのです。

そこで紙を持ち出して、ひと月を上旬中旬下旬に分け、年間36マスに思いつく家族の主要行事を書き込んで行きました。すると、全てのマスが埋まらないまでも、2マス連続での空欄はない、ということに気づきました。結構な量です。

一方、この2ヵ月ほどのごたごたで、妻の最重要ルーチンが崩壊していたことが、ある日判明しました。すなわち、病院の通院日程です。異なる科の病院に、毎月3~4回行く必要があります。同時に薬ももらいますから、薬が切れたら大変です。彼女のQOLの低下に直結します。びっくりした私はとにかく通院日程を決めさせて、私が年休取って子供たちをフォローしてでも、妻に行かせました。こういう泥縄のようなことは、あまりやりたくない。

先日、妻と話し合いを持ちました。目的は3つ。まず、妻の月間ルーチンを確認すること(ここで言及した月1回の「対話」=実際にはランチも含みます)。次に、年間ルーチンを眺めた上で、特に3ヵ月先までの予定を確認し(気がつけばその先も)、それに向けて準備すべきことを確認すること。最後に、この「月次作戦会議」を毎月やるのを確認すること。

これをやっても、また何らかのトラブルは避けがたく発生するでしょう。ただ、その発生したトラブルに対する気の持ちようが違うような気がします。変な言い方をすると、真ん前からタマが飛んでくるか、真後ろからタマが飛んでくるか、の違い。どちらにしろタマは飛んでくるのですが、当たっってしまった後の心の持ちようが少しは違うような気がします。

情報と家庭が交わるところ

「しかしそんなものは、どうせ全部保存しておくことはできない。あきらめることですな。」

情報の家政学 (中公文庫)
梅棹 忠夫
中央公論新社
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この本は、あの「知的生産の技術」の梅棹忠夫氏によるもの。情報論、家庭論、知的生産の技術論を組み合わせて発表した講演やインタビュー、論文などをまとめたものです。1988年に刊行され、2000年に文庫化。名前からして興味が湧いたので、珍しく中古の文庫本を取り寄せました。

こういう成り立ちの本なので、同じような論旨が複数回登場します。煩雑といえば煩雑ですが、インタビューでの表現と論文での表現が異なってくるから面白い。冒頭の一文は『婦人画報』1969年12月号に掲載されたインタビュー記事の一節ですが、とにかく痛快。「すてる」とか「もやす」という言葉がバンバン出てくる。今ならそう抵抗は感じられないかもしれませんが、50年も前に奥様方に向かってこれを言い切ったのはすごい。編集部には抗議の投書が殺到したんじゃないだろうか、と心配になるぐらいです。

考え方はとてもシンプルです。一言で言えば、モノや情報の新陳代謝の仕組みをあらかじめ作っておくこと。これがないから、家の中が破綻する。それだけです。この本には「京大式カード」自体は登場しませんが、その代わりに活躍するのが「フォルダー」です。これを大量に備えておいて、必要な書類を取り込んで50音順に配列し、いつでも取り出せるようにする。一方、すべての部屋に必ずゴミ箱を常備しておき、いつでも捨てることができる状態を保つ。これは”GTD”のデビッド・アレンと同じことを言っているような気がします。50年も前にです。

また、オフィスと家庭の最大の違いは、家庭は書類以外のモノがやたらと多い、ということ。しかも「思い出」にしたいから捨てられないものが多い。そこに対して筆者は「あきらめることですな」とあっさり言い切る、だけではありません。この一節の直後にこう言っています。

保存したかったら、写真にとってのこせばよい。

つまり、シンボル化を推奨しているわけです。彼はミニマリストではありません。収入の許す限りモノはバンバン買っていい、と言います。一方で物理的な限界がもちろんある。そこをつなぐのが「フォルダー」であり、ゴミ箱であり、写真によるシンボル化なのかもしれません。

そして、その「フォルダー」を集めて、「家庭における情報センター」が必要だ、と筆者は主張します。

家庭においても情報の出し入れが激しくなってくると、主婦のためのデスクが必要になってきます。電話とノート、ファイルのためのキャビネット、カード・ボックス、一時的なメモのための白板などを装備したコーナーが必要となのでしょう。

なぜ主婦のためのデスクが必要かというと、家庭の情報の入出力は主婦が握っているから、ということなのですが、この状況は時代の要請によって変わっているかもしれません。ただ家庭の情報の入出力を夫婦共同で行っているとしても、主婦のためのデスクは必要な気がします。主婦のためのパソコンだけではなく。

「いい加減」な親、いい「加減」な親

3月になりましたが、毎年冬から春先は妻の体調が一番きつい時期です。精神的な影響も大きく出ます。
といった状況で、このブログを読んで、いろいろ考えさせられました。

あなたは「正しい親」をイメージできますか:シロクマの屑籠

 子どもを一人で置き去りにする親は正しくない。
 子どもに体罰する親も正しくない。
 子どもの教育に無頓着な親も正しくない。
 不規則な生活や偏った食事に無頓着な親も正しくない。

私事で恐縮ですが、私は物心ついたころから片親で育ちました。毎日働いていて、かつ実家や親類とはほとんど接触がありませんでしたから、当然自分は一定時間放置されます。さすがにひとりで放置は危険と思ったのか、ほぼ毎日塾か習い事のようなことをやってました。なので、教育に無頓着ではありませんでしたが、生活や食事は不規則でした。見事に偏食でした。

で、うちは当時からなんとなく「正しい親」ではないとは思ってましたが、自分を育てるためにやむを得ないとも感じてましたし、多種多様な家庭環境をクラスメートとかから聞くなかで相対化し、「衣食住と、多少のおもちゃがあれば十分ありがたいのだ」と思っていたので、言ってみれば基準となるベースが低かったのです。

一方、私の妻の両親は、多くの方が「正しい親」だと認定してしかるべき方です。厳格な父親、家事万能な母親、当然親戚筋の付き合いは欠かすことなく、娘にはカッチリと門限が設定される。もちろんクラスメートから多様な家庭環境は聞いていたようですが、伝家の宝刀「ヨソはヨソ、ウチはウチ」であっさり説得されてしまい、自分にとっては自分の家が当たり前、と思ってしまったようです。

すると、どうなるか。「正しい親」である彼女の両親が無意識にもベースとなる。さらに彼女は軽度のADHDですから、彼女の母親のように家事や育児がキチンとできないことがままある。そこで「自分はダメな人だ」と思ってしまう。

ここで、問題点が二つあります。一つは基準のレベルをどこに置くか。低ければいいという問題ではありませんが、高すぎると、破綻します。
 
もう一つは、どの程度「幅」を持たせるか。いくら出来る人でも、調子の悪い時はあります。そこで一定の幅を許容しないと、これまた破綻します。ところが、頭の中が簡単にとっちらかるADHDのよう方は、この調整が難しい。極端な話、オンとオフしかできない。ずっとオンのままだと、当然破綻します。

私は破綻を回避すべく、半ば意図的に子供の前でオフ状態を見せるので、子供たちから「適当大魔神」という、わけのわからんあだ名をもらっていますが、悪く言えば「いい加減」です。

そんな私を、いい「加減」ができるからうらやましい、と妻は言ってくれますが、やりたくてもできない彼女の気持ちを察することしかできません。これは誰かに言われて急に出来るものではない。長い年月をかけてゆっくりと変わっていくものでしかないような気がします。気長に、待つしかない。

自己愛研究で名高いハインツ・コフートという精神科医は、「最適な両親とは“最適に失敗する”両親のことである」という言葉を残しているが、私もそのとおりだと思う。

これは至言だと思います。私が最適な親かどうかはわかりませんが、少なくとも、いついかなる時も「正しい親」であることを押し付けて、子どもを窒息させるようなことはしたくない、と考えています。

極言すれば「正しい親」なんて、この世に存在しません。存在しえないものを要求するのは、理不尽でしかない。存在すべきは最適な親なんだ、と思います。

生きていく定め、との闘い

「人の一生は、重き荷物を負うて、遠き道を行くがごとし」という先人の遺訓が思い浮かびました。

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)
リンダ グラットン アンドリュー スコット
東洋経済新報社
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正直、読んでてつらい本だと思いました。
100年の寿命を持つ人が増えていくこの時代に、60ぐらいで仕事を辞める生き方は、明らかにふさわしいものではない。では、どうすればいいか?という疑問に応えた本です。

一読して、まず思ったのは、筆者の想定する社会は、果たして持続可能なのか?ということでした。前著WORK SHIFTを読んでいても思ったのですが、筆者の理想とする生き方なり働き方なりができる人はごく少数であり、大多数は単なる「無限地獄」に陥ってしまいかねない。そんな社会が持続可能なのか?

筆者は、大丈夫だ、と言いきります。一人一人が変わっていけば、そのうちみんな変わっていく。すごいポジティブシンキング。正直、これはついていけない…

このように思う、私のようなちょっとへそ曲がりの方は、前半をすべてすっとばして、第9章「未来の人間関係」から読み始めるといいかもしれません。私がこの本に引きつけられたのは、

本書では、長寿化時代に人生の選択肢が広がる側面に光を当ててきた。しかし、相変わらず融通が効かない要素が一つある。それは、女性の妊娠可能年齢だ。

この一節を読んでからでした。「死すべき定め」で大きく取り上げられた認知症でさえ(すごく乱暴に言えば)長期的にはなんとかなる、とスルーした筆者が、変えられない、と指摘したポイント。長寿社会の中で「生きていく定め」と闘うための隠れたキーポイントは、実はここにあるような気がします。

そこから家族の行く末を考え、人生の多様化を求める人が増えて行くことを考え合わせれば、「核家族」が減少して「大家族」が増えていくのではないか、という筆者の予測は卓見だと思います。

思えば、工業化が進行し、標準化と効率化が何よりも重要視された社会、というのは、せいぜいこの100年ぐらいの限られた期間における傾向なのかもしれません。核家族化の進行もそのなかで進んできたのですが、特に子育てしている人にとって言えば、核家族だけで全てに対応するのはちょっと「持続可能」とはいえない。だから「大家族」の復活というのは、昔に戻れ、ということではなく、また新たな段階に入った、といえるのでしょう。

また、長寿化にとって最大の課題は経済面ではなく、むしろ「無形資産」のメンテナンスだ、という筆者の主張にも頷けるものがあります。もちろん経済面の問題はこの本でも大きく取り上げられてはいるのですが、「無形資産」の問題はさらに大きい。家族、仲間、健康、知識。金がなくなっても人がいれば復活できる、という話は古来よく言われることでもあります。そして、

本書ではこうした問題を検討し、どのような未来が待っているかを論じてきた。しかし、「私は何者か?」「私はどのように生きるべきか?」という問いに答えられるのは、結局のところは本人しかいない。人生が長くなれば、これらの問いは無視できないものになる。

結局のところ、「生きていく定め」との闘いでも、最も大切なのは、一貫性なのかもしれません。「死すべき定め」と同じように。

死すべき定め、との闘い(2)

前回の続きです。

死すべき定め――死にゆく人に何ができるか
アトゥール・ガワンデ
みすず書房
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この本を読んで、特に気になったのは「家族」の存在です。ガンのような死に至る病を受けて、一番頼りになるのは、やはり家族でしょう。病状が進行して自分の意思を話すことができなくなれば、家族のサポートなしに生きながらえることができないし、本人に代わって家族が治療方針を決めることになります。さらに言えば、さほど病状が進行していなくても、家族が治療方針に与える影響は少なくありません。

家族を苦しめたいと思う患者はいない。ブロック医師によれば、おおよそ三分の二の患者は、大切にしている人から望まれれば、本人にとしては受けたくない治療でも受けてしまう。

この筆者の指摘は重要です。家族は患者本人を助けるどころか、結果的に反対のことをやりかねないのです。患者本人が家族のためを思って頑張ってしまうことが往々にしてある。そしてみんなにとって不幸なことに「寿命を縮める」という逆の結果を生みかねない。そのならないようにするために、家族は何ができるのか?これは常に考えておかなければならないのかもしれません。

そして、もう一つ。患者が頑張ってしまう最大の理由は、家族が、あるいは患者自身が「死すべき定め」を受け入れられないことです。そこで重要なのが「方向転換」です。関係者一同が納得すべき、大きな進路変更です。

化学療法が無効になったとき、(略)、自分で着替えができなくなったとき、そんなときにすべての人にとって必要な会話である。このような話し合い、方向転換がいつ必要なのかを決めるために行う一連の会話をスウェーデン医師は「ブレーク・ポイント・ディスカッション」と呼んでいる

「一貫性を求める」ということは、すべてのことを突っ張るのではない。全く逆に「あきらめる」あるいは「受け入れる」ことで、かえって薬の量や医療費が減って、かつ長生きするということ。これは感覚的な話ではなく、事実によっても裏付けられている、と筆者は指摘しています。もちろん、この方向転換をいつ、どのようにやるかは、とても難しい作業です。人によって「答え」が異なるからです。それでも、それを乗り越えてこそ「良き終わり方」を成し遂げることができるのでしょう。

自分の人生に限界があることを自覚するようになると、人はあまり多くを求めないようになる。(略)可能なかぎり、世界での自分の人生の物語をそのまま紡ぎさせてほしいと願う

これこそが「一貫性」なのでしょう。私はまだまだその境地に達していませんが、実はここに「シンプル」という視点が含まれているような気もするのです。

死すべき定め、との闘い(1)

「死すべき定めとの闘いは、自分の人生の一貫性を守る闘いである」

死すべき定め――死にゆく人に何ができるか
アトゥール・ガワンデ
みすず書房
売り上げランキング: 7,957

この本の著者は、以前取り上げたチェックリストの本と同じ筆者ですが、この本では、本業である外科医の立場で、今を生きる人々の死生観を問い直します。今まさに余命宣告を受けている人を持つ家族、認知症の方への介護で多大な苦労を強いられている家族、いや、そのような事態になる前にこそ読むべき本である、と言えます。

情報化社会により、あらゆる環境が急激に変化する一方、医学の進歩は別の変化を人間にもたらしました。すごく乱暴に言ってしまうと「死にかけている期間」が長くなったのです。

昔は病魔に襲われてから死生観など深く考える間もなく死んでしまったのに、今は違う。自分でやりたいことができなくなってから完全に死んでしまうまでの期間を長くすることができてしまうために、足元の治療方針から家族の死生観まで、ありとあらゆることを考える時間ができてしまった。さあ、どうする?

この難問に立ち向かうため、筆者は何人もの死に至った方々の具体例を上げる一方で、多くの客観的な統計、アメリカにおける介護・医療現場の現状、さらには心理学(マズローの欲求5段階説やカーネマンの「ファスト&スロー」)まで動員して、読む者の死生観を問いかけます。これらが重層的に語られるにも関わらず、筋立てがあまり混乱しなかったのは、筆者のストーリーテリングのうまさはもちろん、「死」という不可避的な結末が見えているからかもしれません。

その上で、幸せな人生を終わり方のために、最も必要なものは、医学的な情報ではない、と筆者は指摘します。このエントリーの冒頭で引用した一文の近くに、このような文があります。

人が求めるものは、自分自身のストーリーの著者でありつづけることだ。このストーリーは常に変わり続ける。(略)しかし、何が起ころうとも自分の性格や忠誠と一致するようなものになるように人生を形作れる自由を保ちたいと願う。

自分自身のストーリーの著者。これは重い言葉だと思います。今、どういう薬を飲むか?どういう治療を受けるか?ではない。今、自分は何がしたいのか?何がしたくないのか?ここに至るまでの自分の来し方に思いを馳せて、ようやくたどり着いた「欲求」。これを自分自身はもちろんのこと、家族も、医師も、わかっていなければならない。

とても難しいように思えますが、そうでもないかもしれません。単純に、前もって話しておけばいいのです。アメリカのある町で、「終わり方」について前もって話し合う人が増えただけでアメリカの平均値に比べて寿命が長い、という事実があるのだそうです。

ただ、私を含めて、たいていの人はそこまで思いがめぐらない。「生きているのが当たり前」と思ってしまうからでしょう。映画の言葉じゃないけれど「始まりがあるものには全て終わりがある」のです。常にではなくても、心の片隅にでも、終わり方について考えておいたほうがいいのかもしれません。

そして、医療的なこと(例えば延命処置をするかどうか)だけではなく「何をしたいか?何をしたくないか?」ということ、それも今だけではなく、時々アップデートすること。これが大切なのかもしれません。

この項、続きます。

「知的生産」と家族

このブログは、「知的生産」とは関係のないところにあるものだ、と思っていました。

この雑誌を読むまでは。

かーそる 2016年11月号
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この雑誌は、知的生産にまつわる雑誌。ブログを書くすべての人に、その書く意味を問い直す雑誌、と言ってもいいかもしれません。

この創刊号のベースとなっている「知的生産の技術」は、私も読んだことがあります。ところが、この本は学者さんが、論文を書くために、様々な知の技法を駆使して、情報を処理していく様を描いたもの、と認識していました。

ネタ元の大半が普通の書籍でしかなく、下書きにはsimplenoteしか使っていないこのブログとは全く縁のないもの、と勘違いしていました。

ところが、それは大間違いである、と倉下編集長が指摘します。

「知的生産の技術」は、市民に開かれたものになるはずでした。「知的生産の技術」の未来は、生活の技術として位置づけられていたのです。でもそれは、脇道へと逸れてしまいました。悲しいけれども、それが現状の姿です。

ここでハッとしました。「知的生産」は学術的なことにも、仕事術のようなことにも、限定されるものではない。「生活」というキーワードが出てきて、一気にこの雑誌への見方が変わりました。

その倉下編集長の問題提起に続く、多彩な執筆陣の文章の全てに感想を書きたいところですが、いっきさんのこの一文が、最も印象に残りました。

あまりに諸事雑事に振り回されて、自分の一貫性がたもてなくなりそうだから、

知的生産をする。

それでいいではないか。
そしてその痛みを、人と分かち合えばいい。

この一文を読んで、正直ホッとしたというか、救われた気持ちになりました。今思えば、私がブログを始めた本当の理由はここにあったから。

そして、この雑誌を読みながら、私が思い浮かんだキーワードが「家族」でした。そもそも、このブログを始める直接的なきっかけは、妻のADHDにありました。このブログにおいて、ADHDそのものへの言及はあまり多くはないですが、そういう妻を持って、そういう妻と共に子育てをする私の目線が、全てのエントリーの根底にあります。

タイトルは、もちろん「知的生産の技術」の下手な文字りです。でも、私がブログを書く理由は、案外この一言で説明できるかもしれない、と思いはじめました。その言葉にふさわしい内容にすべく、これからも精進いたします。

今年もよろしくお願いします。

チェックリスト 今そこにある安全網(5)

実はこのシリーズは4回で終わる予定だったのですが、前回記事の直前にこんな本が出てきました。正直に申し上げます。びくびくしながら読みました。

「目標」の研究

「目標」の研究

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計画やto doリストを一度でも作ったことがあるのなら、そして一度でも遂行に失敗したことがあるのなら、読んで損はない、と思いました。

目標や目的についての根源的な問いに対して、理詰めで迫ってきます。とらえ方は前回取り上げたロバート・ハリスと真逆と言ってもいいのですが、たどり着いたところは案外違ってないような気がします。なぜロバート・ハリスは「日付をつけない」夢をあえて100個も作ったのか、あらためてわかりました。

そして、チェックリストを運用するにあたって、最も大切な「安全網」は、見直すことだ、と筆者は指摘します。

目標設定をプロセスとして捉えると、驚くことに「終わり」がなくなってしまう。一つの目標は、常に改善され得る対象となるのだ。

実はロバート・ハリスの本には「100のリスト」が2つ出てきます。本文と、あとがき。さらに文庫版あとがきにはその後のフォローが記されています。彼も、見直すことをわすれなかったのです。

世の中には、一つの目標に向かって邁進することを異様に有り難がる風潮があるが、実際「愚直すぎる邁進」は目をつぶって全力疾走しているのと変わりない。

見直すことを怠ると、安全網どころか自らに刃を向けることになりかねない。しかもそれはわりとよく起こっているような気がします。だから、最初に作ることよりも、メインテナンスすることの方がはるかに大切です。

そして、もうひとつ。私がこの本で一番印象に残った一節です。

私たちがまっさきにやるべきことは、「今自分が生きている」ことを肯定することだ。それがどれだけちっぽけに見えても、実はその背後にたくさんの物事や、人と人とのつながりが支えてくれているのを知ることだ。それを土台にして大きな夢を見るならば、たとえその夢が破れても、人生に絶望することはないだろう。

これです。これがわかっていない人が多いのです。私を含めて。本能的に拒絶するのです。これが最も重要な「安全網」なのに。「生きてるだけで丸儲け」と明石家さんまが言っているのに、理解できない。

なぜ理解できないのか、正直申し上げて、よくわかりません。昨今の情報過多はあるかもしれない。ただ、情報過多でなくても、なかなかできない。人が本能的に備えている向上心がヘンな方向に向きやすいからかもしれません。

ただ、目標を立てるにあたって、夢を持つにあたって、すべての前提となるのは、この考え方にあるような気がします。この前提に立って作った夢のリストは、必ず自分にとっての「安全網」になるような気がします。

良いお年を。