畑を耕すこと、花を楽しむこと

このブログの更新頻度を少し上げようと思いました。

Evernoteとアナログノートによる ハイブリッド発想術
技術評論社 (2017-05-29)
売り上げランキング: 47,608

そもそもこの本を買ったのは、ブログの更新頻度を上げることが目的ではありませんでした。これまでアナログの手帳でやっていた日記もどきを、とある理由でスマホによるEvernoteに移行して、自分のメモのデジタル/アナログ比率が変化し始めたちょうどそのときにタイムリーな題名の本が目に入ったからです。

で、読み始めて、ちょっと面食らいました。前書きに 

本書は「アイデアの教科書」を目指しました。 

と書いてあったからです。題名を見て、実際のツールに関わることが多く書いてあるだろうと勝手に想像していたのです。

そして著者はアイデアを「畑」にたとえ、種から芽が出て身を結ぶまでの一連の動きと、それを助けるための便利なツールを説明しています。つまり、アイデアが文章になって世に公表されるまでの過程を丹念に追うことが重要であって、ツールはそのサポートに過ぎない。ただし自分にあった適切なツールの使い方をすれば、大きなサポートになりうる、と主張します。

一方、私がこのブログでやっていたのはせいぜい「植木鉢」で、しかもツールは最小限。ただ、ブログとして文章を公表するまでに頭の中でやっていた作業は、この本に書いてあることの一部を実際にやっており、そのことが言語化されたこと自体が、まず私にとって大きな収穫でした。それだけでなく、ほかのやり方もあるよ、と言われたとき、あ、そうか。と思ったのです。植木鉢ができるなら、プランターぐらいのことはできるかもしれない。そう思えてきたのです。

そういう目線で、改めてこの本を読み直した時、あ、植物育てるって楽しいよね、と思いだしてきました。今まさに、うちの子供達がやっていることです。毎日水やりして、草引きして、いろいろ整えて、、、と考えた時に、自分の中で最も楽しいステップが、この「いろいろ整える」という段階でした。もっと具体的に言えば、エントリーのタイトルを考える時。

普通の植物は、種を植えた時点でどういう花が咲くかはだいたい決まっていますが、アイデアの場合、どういう花を咲かせるかは自分で決めることができる。そして、どういう花にするかによって、その後で成る「実り」にも影響する。とても重要な作業です。私の場合もあっさり決まることがあれば、最後の最後まで決まらないこともあります。筆者はこの本の中で「キークエスチョン」の重要性を指摘していますが、おそらくそれは「タイトル」の重要性に直結するような気がします。

いきなりこのブログを毎日更新にする気はありません。植木鉢をプランターに変えるにはそれなりに準備が必要です。さすがに気合だけではうまくいかない。このブログを始めてほぼ2年。無理のないペースでアイデアの畑を耕して、その面積を少しでも広げることができれば、と考えています。

「余裕」がわからない社会、「違い」がわからない社会(2)

前回の続きですが、単にこういう社会はダメだ!という批判しているわけではありません。そもそも自分自身も今の社会を作り上げた一人ですから、反省の意味も込めて書いています。

ところで、前回

「誰それができたのだから誰でもできるはず」と思う人が多い社会

と申し上げました。これは「あなたは、私とは違う」、つまり「違い」の認識ができにくい社会である、とも言えます。「違い」の認識ができにくい、というのは、一つには日本がほぼ単一民族だから、というのもあるのでしょうが、それよりも、ただ単に「違い」を受け入れることのできる「余裕」がないからではないか、と思っています。

また、こんな社会になってしまったのは、社会を構成する人の大半が「余裕」のある社会そのものを経験していないのも原因のひとつではないか、と思っています。戦後の混乱、高度成長期、そしてバブル。「右肩あがり」ではあるが、しんどいのが当たり前と思っている。しんどくないのは罪とさえ思っている、とは言い過ぎでしょうか。もちろん、すべての責任を、そういうことを経験してきた年長者に押し付けるわけではありません。

そう、追い詰めないこと。単に余裕がないだけなら、わざわざ追い詰める必要がない。そんなことする時間があるなら、休んで気力体力の回復に当てればいいのに、わざわざやってしまう。これは「違い」に対する本能的な拒否反応から来ているような気がします。

自分とは異質のものなり人なりがいきなり目の前に現れると、本能的に防御の姿勢を取る。これはしょうがない。逆に言えば、異質のものに対する「慣れ」があれば、そうはならない。で、この「慣れ」は誰かから与えられるものではなく、自分で獲得しなければならない。もちろん幼少時には親がその環境を整えてあげた方がいいでしょうけど、ある程度歳をとれば、そうもいかない。「慣れ」は統一的な規格ではなく、個々人が持つ距離感のようなものだからです。

一方で、「慣れ」の獲得は相互作用ですから、「異質」側の行為も問われる。攻撃されれば怖い、という気持ちはもちろんわかるのですが、ひたすら隠すだけでは「慣れ」てもらえるわけがない。その意味で、今回のNスペのような、発達障害の当事者側からの積極的な発信は必要であり、とても勇気のある行動だと思います。こんな番組普通の人はわざわざ見ないよ、という声も多々あるようですが、それでも地道に繰り返すことでしか「慣れ」は獲得できない。

異質であることを、隠すのではなくさらけ出し、ある種当たり前として認知できる社会。それは、特にこの日本では、誰でもメディアになれる時代だからこそ近づいているのかもしれません。

「余裕」がわからない社会、「違い」がわからない社会(1)

先日のこの番組の影響で、私のTwitterのタイムラインが沸騰しました。

NHKスペシャル|発達障害 ~解明される未知の世界~

私のフォロー先(発達障害の当事者も少なからずいます)の評価は、概ね好意的に見えました。たしかに突っ込みどころはあるけど、まずはこういう番組がNHKスペシャルとして製作されて、不特定多数が見た、という事実だけでも大きな前進。私も、発達障害の当事者ではありませんが、同意見です。

そういった議論の一方で、いろいろ考えがタイムラインを流れていったのですが、その中で一番感銘を受けたのが、これでした。

これは、軽度のADHDである妻を毎日見ており、以前適応障害に関するエントリーを書いた私にとって、とても重要な指摘です。極言すれば、どれだけ脳機能に障害があっても、社会と折り合いをつけることができれば「生きづらさ」は感じず、あまり不幸にも思わない(そういうフリをしているだけ、であれば別)。

ところがADHDの程度が軽くても、ママ友との付き合いがきついとか、自分の頭の中がどうやってもまとまらなくて生活していくのに苦労する、という状況であれば、医師の正式な診断があろうがなかろうが、対処が必要な問題です。その生活は当然「社会」と密接に関係していて、社会とどう向き合うか、という問題に帰結します。

テクノロジーの発達等により人々が受け入れることのできる「総量」はたしかに以前より増えたけれど、社会が求める「総量」の増加は、それを上回っているような気がします。特に「誰それができたのだから誰でもできるはず」と思う人が多い社会では、これが顕著に出る。

自分たちで勝手にレベルを上げて、自分や他人の首を絞めにかかる。これはさすがにヤバい、と関係者一同が実感してやっと変わった典型例が、ヤマト運輸の昨今の対応だったような気がします。最低週に1回はヤマトさんや佐川さんのお世話になっている私にとっても、身近な、そして反省すべき事例でした。

社会の個々人が生活の質を上げようとして、社会に対して求める「総量」が大きくなると、シンプルに考えれば、社会の人口が増えない限り、逆に社会の構成員でもある個々人の余裕がなくなっていきます。そうすると、今までなんとか折り合いをつけることができた人がドロップアウトを余儀なくされる。これはどう考えても本末転倒です。

もちろん、質を下げて昔に戻れ、と言いたいのではありません。ただ、やはり色々な理由で、私たちは社会に対して何かを求め過ぎていたのだろう、という気がします。新たなテクノロジーが生まれて、それを試しに使ってみて、それを生活の質の向上の糧にするのはいいとしても、そこで達成された新たなレベルを、ありがたいものではなく「当然のもの」として認識された時、社会が少しずつおかしくなっていくような気がします。

この項、続きます。

死んじゃうさだめ、とのたたかい

金融危機がネタになれば、絵本もネタになりえます。

このあと どうしちゃおう
ヨシタケ シンスケ
ブロンズ新社
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私にとって著者の本は「りんごかもしれない」「ぼくのニセものをつくるには」に続いて3冊目。近くの本屋で平積みされていたのをうちの子供達が見つけて、買って買って、とせがまれました。この本は子供向けの絵本としては珍しく「死」に向き合ったもの。しかし、彼独特の文体はいい意味で重々しさを感じさせません。

本を開けると、いきなり「こないだ おじいさんが しんじゃった」という一文から始まります。ところが、その後、おじいさんが生前に残した『このあと どうしちゃおう』というノートが見つかって、それを読んだ主人公が「このまえ」、つまり自分が死ぬ前のことを合わせて考え始める、という筋書きです。

その『このあと どうしちゃおう』は、遺書ではありません。普通遺書というのは、この世に残された関係者に対してメッセージを残したりするものです。ところがこのノートには、自分が死んだらこのようにして生まれ変わりたいとか、こういうお墓や記念品を作ってほしいとか、つまり自分自身のことしか書いてない。まさにこれは、以前取り上げた「死すべき定め」の大きな主題のひとつである「一貫性」の問題です。

主題の重さのせいか、ブックレットが付録についており、著者へのインタビューが収録されています。そこに、こんな一文があります。

で、これは実感なのですが、人は死の間際になればなるほど、死について語れないんです。(略)父も母も健康で元気な時に、もっとカジュアルに死について話ができたらよかったな、と思ったんです。

これは重要な指摘であり、私自身の実感とも一致します。「死すべき定め」でも、自分が死ぬことについて自分自身が意識して、前もって周囲に話すことの重要性が指摘されています。そうすることで自分自身はもちろん、関係者一同のQuality of Lifeが逆に上がる。それは自分の「一貫性」を周囲に示すことで、それに寄り添った関係者の安心感や幸福感にもつながることだ、と思います。

そしてもうひとつ、こんな一文がありました。

「死んじゃいたい」と思いつめている子に、「死んではだめ」と言う前に、その子の視界がひらけるような、冗談なり小話なりといったものを大人がいかに持つか。

これは「死すべき定め」でも取り上げられていない指摘です。自殺願望を持つ人は、自分のやりたことができない、あるいは一貫性を保てないことがその大きな原因になっていることが多いと思いますが、そこをいかにやり過ごすか。特に一貫性を保ちにくい子供に対して、大人がどうやってサポートしてあげるか、ここは重要なポイントのような気がします。

実はこの本は昨年刊行されていますが、私が本屋で見かけたのは、最近のことです。季節的に子供達がいろいろと不安に思うことが多いこの時期に、本屋さんが仕掛けた、子供達へのささやかな応援だったのかもしれません。もちろん、私自身にとっても。

自尊心をくすぐるもの、自制心を崩すもの

この本が、このブログのネタになるとは、思ってもみませんでした。

ブーメラン 欧州から恐慌が返ってくる (文春文庫)
マイケル ルイス
文藝春秋 (2014-09-02)
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ほとんど気晴らしために手に取った前著「世紀の空売り」の読み応えがあったので、その続編にあたる本書を読んでみることにしました。主題はリーマンショックに続く欧州金融危機。

「世紀の空売り」は、どことなく語り口にエンターテイメント的な感じがする(だから映画にもなったのでしょう)のに対し、今作はかなり落ち着いた、というより若干沈鬱な印象を受けました。

私は、欧州金融危機とは、お金のことに真面目とはいえない、ギリシャを始めとする南欧諸国を、他の国がいやいやながら助けている、という構図だと思っていたのですが、その認識は大間違いである、と著者は指摘します。アイスランド、アイルランド、ギリシャ、そしてドイツ。それぞれの国、あるいは国民性にこの危機を招いた要素があり、それが国によって明らかに異なることを映し出します。

この本を読んで私が関心を持ったのは、国によって大きく異なる「自尊心」と「自制心」の持ち方でした。

自尊心は人間であれば必ずといってもいいほど持っていると思います。(Aならかなわないけど)Bなら誰にも負けない、という心。私は「スペシャル」である、という心。こういう心を持つこと自体は問題なく、ある意味必要でさえいえるのですが、(私を含め)大半の人がよくわからない金融の話で自尊心がくすぐられると、大変なことが起きる。まして、もともと人間が本能的に溜め込もうとする「お金」の話ですから、問題は複雑です。

お金のことで自制心を失う問題は、単純に「うまい話に気をつけろ」という問題だけではないような気がします。一つにはバブル当時のように、周囲のみんなが「うまい話」を信じた状態で自制心を保てるか?ということ。もう一つには、バブルでなくても、ネットには自尊心をくすぐり自制心を失わせる情報がいくらでもある、ということ。だからといって、情報を遮断すればいいという話ではなく、事実上不可能です。では、どうすればいいのか?

「自己規制を拒むのであれば、我々を規制してくれるのは、環境と、環境が我々の権利を剥奪していくその過程だけです」(略)言い換えれば、意味のある変化を起こすには、必要量の苦痛を我々に与えてくれる環境が欠かせないということになる。

本書で登場するある学者の指摘です。この指摘をリーマンショックを重ねあわせた時、自制心を失った先にあるものは、相当にきついハードランディングを連想してしまいます。

一方で、多くのイノベージョンはある意味自己規制を突き抜けた先にこそある。リーマンショックはCDSというとんでもない金融商品のイノベージョンによって生まれたわけですが、逆に人々の幸福に資するイノベージョンも同様です。

私たちがみんなすごいイノベージョンを発明する必要がないにしても、「必要量の苦痛」の経て得られる変化、そしていい意味での自尊心の進歩は、自制心の適度なコントロールの先にあるのかもしれません。

How might we…

「今日をプロトタイプと考えよう。さあ、何を変える?」

クリエイティブ・マインドセット 想像力・好奇心・勇気が目覚める驚異の思考法
デイヴィッド・ケリー トム・ケリー
日経BP社
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この本は、私のような、いわゆる「クリエイティブ系」な職についていない人を含むすべての人が、「想像力に対する自信(クリエイティブ・コンフィデンス)」を発揮できるようにするためのガイドブックです。

著者によりわざわざ「日本のみなさんへ」という前文があり、そこには日本人に対する心からの応援が書いてあります。世界5か国5千人のアンケートで、日本以外の国の回答者は日本が世界で一番クリエイティブだと言っているのに、日本人は自身が最もクリエイティブだと回答した割合は最低だった。でも、実際はそんなことはないだろ?日本人はもっと自信を持っていいはずだ、と著者は言っています。

もしかしたら、私たちはクリエイティブという言葉を誤解しているのかもしれません。iPhoneを発明することだけがクリエイティブではないはず。誰でも自信を持って、自分の人生を、世界を、変えることができる。ポジティブすぎるかもしれないけれど、著者はそう言いたいのだと思います。

さて、その自信をつけるやり方は、実にシンプル。とにかく、毎日、実践あるのみ。ほんの少しでもいい。何かを作って、何かを変えて、結果を見て、次に進む。それだけです。その具体的な手法や考え方が、この本には満載されています。

その導入編が「恐怖への克服」であることはとても示唆的です。とにかく何か新しいことを始めることに対する恐怖や不安は誰しもが持つことです。特にここ日本では、何か「変わったこと」に対する世間の目は常に批判的です。小さい頃、友達に「その絵へたっぴ〜!」と言われただけで絵の才能を放棄する、というのはよくある話ではあるが、あまりに惜しい。だから、何か突拍子もないことをやって、それを周りの人々に受け入れられるようにするには、それなりの作戦が必要かもしれません。

その幾つかの作戦の中で、特に気に入った言葉が二つありました。一つ目が「カラオケ・コンフィデンス」です。そう、日本が世界に誇るべき文化であるカラオケは、人々にクリエイティブ・コンフィデンスをも与えるきっかけを持ちうるものなのです。なぜ私たちは、ああいう場ならマイクを持って恥ずかしげもなく歌うことができるのか?を考えれば、自分が変わるヒントがあるかもしれません。

もう一つが、タイトルに挙げた “How might we…” です。私たちは、どうすれば〜できるだろうか?なんでも否定するのではなく、仮にこうしたら、私たちはこのようにできるかもしれませんよね?と問いかける。

主語がyouでもIでもなく、weであるのがポイントです。君はこう変えるべきだ、と言われると、誰でも本能的に抵抗する。私はこう変えたい、というと、恐怖感が増す。日本語だと必ずしも主語を明示しないので感覚が異なりますが、とにかくいろんな意味でハードルやガードを下げやすい言い回しだと思います。

冒頭の一文も、この本の中にあった一節です。いかにもプログラマっぽい、いや、ものづくりっぽい言い方ですね。1日1日は、過ぎていくのではなく、作り出していくものなのかもしれません。

ルーチン:ほんの少しのコントロール

あるメルマガに、こういう一文がありました。

自分の人生を生きたけば、自分にそれがコントロールできないことを受け入れなければなりません。ままならないこと。それが人生の特徴です。

そうですね。私の場合は、特に冬から春にかけて、そう感じます。家族の誰かが、ある予定を立てる。その後体調不良となり、ドタキャンする。さらにはそのフォローのため、予定外の行動が発生する。その影響が将棋倒しのように家族全員に波及する。予定を立てなきゃいい、という問題ではない。暮らしの中で必ず発生するルーチンすら実行できない。その実行のために突発の年休が必要な場合もある。

不思議なことに主要因がコロコロ変わるのですが、とにかく上記のようなことが毎年起こる。そしてあの一文を実感するのです。

しかし、これは精神的にかなりつらい。全てを完全にコントロールしようとは思ってないし、できないことはわかっている。でも、いくらかのコントロール感は持っていないと、自分を保つことができない。少なくとも私はそう思います。そんな私がコントロールを失って倒れたら、家庭が崩壊しかねない。それを防ぐにはどうしたらいいか?

そのとっかかりとして、ほんの少しのコントロールを持つための手段として、最近思いついたのがその「ルーチン」の把握でした。

以前こういう記事を書いたことがありました。あれは年間ルーチンの一部分を見渡すことでコントロール感を持とうとする動きでした。ある日、これを年中やればどうなるか?と考えたのです。

そこで紙を持ち出して、ひと月を上旬中旬下旬に分け、年間36マスに思いつく家族の主要行事を書き込んで行きました。すると、全てのマスが埋まらないまでも、2マス連続での空欄はない、ということに気づきました。結構な量です。

一方、この2ヵ月ほどのごたごたで、妻の最重要ルーチンが崩壊していたことが、ある日判明しました。すなわち、病院の通院日程です。異なる科の病院に、毎月3~4回行く必要があります。同時に薬ももらいますから、薬が切れたら大変です。彼女のQOLの低下に直結します。びっくりした私はとにかく通院日程を決めさせて、私が年休取って子供たちをフォローしてでも、妻に行かせました。こういう泥縄のようなことは、あまりやりたくない。

先日、妻と話し合いを持ちました。目的は3つ。まず、妻の月間ルーチンを確認すること(ここで言及した月1回の「対話」=実際にはランチも含みます)。次に、年間ルーチンを眺めた上で、特に3ヵ月先までの予定を確認し(気がつけばその先も)、それに向けて準備すべきことを確認すること。最後に、この「月次作戦会議」を毎月やるのを確認すること。

これをやっても、また何らかのトラブルは避けがたく発生するでしょう。ただ、その発生したトラブルに対する気の持ちようが違うような気がします。変な言い方をすると、真ん前からタマが飛んでくるか、真後ろからタマが飛んでくるか、の違い。どちらにしろタマは飛んでくるのですが、当たっってしまった後の心の持ちようが少しは違うような気がします。

情報と家庭が交わるところ

「しかしそんなものは、どうせ全部保存しておくことはできない。あきらめることですな。」

情報の家政学 (中公文庫)
梅棹 忠夫
中央公論新社
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この本は、あの「知的生産の技術」の梅棹忠夫氏によるもの。情報論、家庭論、知的生産の技術論を組み合わせて発表した講演やインタビュー、論文などをまとめたものです。1988年に刊行され、2000年に文庫化。名前からして興味が湧いたので、珍しく中古の文庫本を取り寄せました。

こういう成り立ちの本なので、同じような論旨が複数回登場します。煩雑といえば煩雑ですが、インタビューでの表現と論文での表現が異なってくるから面白い。冒頭の一文は『婦人画報』1969年12月号に掲載されたインタビュー記事の一節ですが、とにかく痛快。「すてる」とか「もやす」という言葉がバンバン出てくる。今ならそう抵抗は感じられないかもしれませんが、50年も前に奥様方に向かってこれを言い切ったのはすごい。編集部には抗議の投書が殺到したんじゃないだろうか、と心配になるぐらいです。

考え方はとてもシンプルです。一言で言えば、モノや情報の新陳代謝の仕組みをあらかじめ作っておくこと。これがないから、家の中が破綻する。それだけです。この本には「京大式カード」自体は登場しませんが、その代わりに活躍するのが「フォルダー」です。これを大量に備えておいて、必要な書類を取り込んで50音順に配列し、いつでも取り出せるようにする。一方、すべての部屋に必ずゴミ箱を常備しておき、いつでも捨てることができる状態を保つ。これは”GTD”のデビッド・アレンと同じことを言っているような気がします。50年も前にです。

また、オフィスと家庭の最大の違いは、家庭は書類以外のモノがやたらと多い、ということ。しかも「思い出」にしたいから捨てられないものが多い。そこに対して筆者は「あきらめることですな」とあっさり言い切る、だけではありません。この一節の直後にこう言っています。

保存したかったら、写真にとってのこせばよい。

つまり、シンボル化を推奨しているわけです。彼はミニマリストではありません。収入の許す限りモノはバンバン買っていい、と言います。一方で物理的な限界がもちろんある。そこをつなぐのが「フォルダー」であり、ゴミ箱であり、写真によるシンボル化なのかもしれません。

そして、その「フォルダー」を集めて、「家庭における情報センター」が必要だ、と筆者は主張します。

家庭においても情報の出し入れが激しくなってくると、主婦のためのデスクが必要になってきます。電話とノート、ファイルのためのキャビネット、カード・ボックス、一時的なメモのための白板などを装備したコーナーが必要となのでしょう。

なぜ主婦のためのデスクが必要かというと、家庭の情報の入出力は主婦が握っているから、ということなのですが、この状況は時代の要請によって変わっているかもしれません。ただ家庭の情報の入出力を夫婦共同で行っているとしても、主婦のためのデスクは必要な気がします。主婦のためのパソコンだけではなく。

「いい加減」な親、いい「加減」な親

3月になりましたが、毎年冬から春先は妻の体調が一番きつい時期です。精神的な影響も大きく出ます。
といった状況で、このブログを読んで、いろいろ考えさせられました。

あなたは「正しい親」をイメージできますか:シロクマの屑籠

 子どもを一人で置き去りにする親は正しくない。
 子どもに体罰する親も正しくない。
 子どもの教育に無頓着な親も正しくない。
 不規則な生活や偏った食事に無頓着な親も正しくない。

私事で恐縮ですが、私は物心ついたころから片親で育ちました。毎日働いていて、かつ実家や親類とはほとんど接触がありませんでしたから、当然自分は一定時間放置されます。さすがにひとりで放置は危険と思ったのか、ほぼ毎日塾か習い事のようなことをやってました。なので、教育に無頓着ではありませんでしたが、生活や食事は不規則でした。見事に偏食でした。

で、うちは当時からなんとなく「正しい親」ではないとは思ってましたが、自分を育てるためにやむを得ないとも感じてましたし、多種多様な家庭環境をクラスメートとかから聞くなかで相対化し、「衣食住と、多少のおもちゃがあれば十分ありがたいのだ」と思っていたので、言ってみれば基準となるベースが低かったのです。

一方、私の妻の両親は、多くの方が「正しい親」だと認定してしかるべき方です。厳格な父親、家事万能な母親、当然親戚筋の付き合いは欠かすことなく、娘にはカッチリと門限が設定される。もちろんクラスメートから多様な家庭環境は聞いていたようですが、伝家の宝刀「ヨソはヨソ、ウチはウチ」であっさり説得されてしまい、自分にとっては自分の家が当たり前、と思ってしまったようです。

すると、どうなるか。「正しい親」である彼女の両親が無意識にもベースとなる。さらに彼女は軽度のADHDですから、彼女の母親のように家事や育児がキチンとできないことがままある。そこで「自分はダメな人だ」と思ってしまう。

ここで、問題点が二つあります。一つは基準のレベルをどこに置くか。低ければいいという問題ではありませんが、高すぎると、破綻します。
 
もう一つは、どの程度「幅」を持たせるか。いくら出来る人でも、調子の悪い時はあります。そこで一定の幅を許容しないと、これまた破綻します。ところが、頭の中が簡単にとっちらかるADHDのよう方は、この調整が難しい。極端な話、オンとオフしかできない。ずっとオンのままだと、当然破綻します。

私は破綻を回避すべく、半ば意図的に子供の前でオフ状態を見せるので、子供たちから「適当大魔神」という、わけのわからんあだ名をもらっていますが、悪く言えば「いい加減」です。

そんな私を、いい「加減」ができるからうらやましい、と妻は言ってくれますが、やりたくてもできない彼女の気持ちを察することしかできません。これは誰かに言われて急に出来るものではない。長い年月をかけてゆっくりと変わっていくものでしかないような気がします。気長に、待つしかない。

自己愛研究で名高いハインツ・コフートという精神科医は、「最適な両親とは“最適に失敗する”両親のことである」という言葉を残しているが、私もそのとおりだと思う。

これは至言だと思います。私が最適な親かどうかはわかりませんが、少なくとも、いついかなる時も「正しい親」であることを押し付けて、子どもを窒息させるようなことはしたくない、と考えています。

極言すれば「正しい親」なんて、この世に存在しません。存在しえないものを要求するのは、理不尽でしかない。存在すべきは最適な親なんだ、と思います。

生きていく定め、との闘い

「人の一生は、重き荷物を負うて、遠き道を行くがごとし」という先人の遺訓が思い浮かびました。

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)
リンダ グラットン アンドリュー スコット
東洋経済新報社
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正直、読んでてつらい本だと思いました。
100年の寿命を持つ人が増えていくこの時代に、60ぐらいで仕事を辞める生き方は、明らかにふさわしいものではない。では、どうすればいいか?という疑問に応えた本です。

一読して、まず思ったのは、筆者の想定する社会は、果たして持続可能なのか?ということでした。前著WORK SHIFTを読んでいても思ったのですが、筆者の理想とする生き方なり働き方なりができる人はごく少数であり、大多数は単なる「無限地獄」に陥ってしまいかねない。そんな社会が持続可能なのか?

筆者は、大丈夫だ、と言いきります。一人一人が変わっていけば、そのうちみんな変わっていく。すごいポジティブシンキング。正直、これはついていけない…

このように思う、私のようなちょっとへそ曲がりの方は、前半をすべてすっとばして、第9章「未来の人間関係」から読み始めるといいかもしれません。私がこの本に引きつけられたのは、

本書では、長寿化時代に人生の選択肢が広がる側面に光を当ててきた。しかし、相変わらず融通が効かない要素が一つある。それは、女性の妊娠可能年齢だ。

この一節を読んでからでした。「死すべき定め」で大きく取り上げられた認知症でさえ(すごく乱暴に言えば)長期的にはなんとかなる、とスルーした筆者が、変えられない、と指摘したポイント。長寿社会の中で「生きていく定め」と闘うための隠れたキーポイントは、実はここにあるような気がします。

そこから家族の行く末を考え、人生の多様化を求める人が増えて行くことを考え合わせれば、「核家族」が減少して「大家族」が増えていくのではないか、という筆者の予測は卓見だと思います。

思えば、工業化が進行し、標準化と効率化が何よりも重要視された社会、というのは、せいぜいこの100年ぐらいの限られた期間における傾向なのかもしれません。核家族化の進行もそのなかで進んできたのですが、特に子育てしている人にとって言えば、核家族だけで全てに対応するのはちょっと「持続可能」とはいえない。だから「大家族」の復活というのは、昔に戻れ、ということではなく、また新たな段階に入った、といえるのでしょう。

また、長寿化にとって最大の課題は経済面ではなく、むしろ「無形資産」のメンテナンスだ、という筆者の主張にも頷けるものがあります。もちろん経済面の問題はこの本でも大きく取り上げられてはいるのですが、「無形資産」の問題はさらに大きい。家族、仲間、健康、知識。金がなくなっても人がいれば復活できる、という話は古来よく言われることでもあります。そして、

本書ではこうした問題を検討し、どのような未来が待っているかを論じてきた。しかし、「私は何者か?」「私はどのように生きるべきか?」という問いに答えられるのは、結局のところは本人しかいない。人生が長くなれば、これらの問いは無視できないものになる。

結局のところ、「生きていく定め」との闘いでも、最も大切なのは、一貫性なのかもしれません。「死すべき定め」と同じように。