我に返ること、我に帰ること

この夏に、一つの大きな決断を下しました。

前回のエントリ時では、個人的にいろいろ苦しい状況下にありました。というより、長い期間少しづつ積み重なってきたストレスの大きさに気づいてハッと我に返り「これは大変だ!」とある日突然実感した、といった方がいいかもしれません。

思えば、いろいろ抱え込んでいました。家族のこと、コミュニティのこと、仕事のこと。仕事のことは以前から意識して抱え込みすぎないようにしていたのでいいのですが、特に家族のことを抱え込む負担が増大していた、と今にして思います。

ただ「適正量」がわからなかった。これは3つの意味があります。

1、自分にとって深刻な負担にならない量
2、家族に深刻な負担が発生しないように、自分が抱え込む量
3、世間的に見て「これぐらいはやらんといかんでしょう」と思われる量

3、はおそらくクリアしていると思います(確たる自信はないのですが)。問題は1、と2、のかねあいです。妻の適応障害をフォローすべく2、のレベルを高く見積もっていました。すると、いつの間にか1、を超えていたのです。

また、家族の動きと某コミュニティの動きが密接に関わっているという特殊な事情もあり、コミュニティを含む多方面に向けて「もういい加減にしてくれ」と叫ばざるをえない状況になってしまいました。

いい加減にしてくれ、はわかった。じゃあ、これからどうするんだ?と思ったときに、このブログが、後押ししてくれました。

〈混ぜるな危険〉R-Style

これは、決定論・運命論でもなく、かといって自己が世界を支配するという話でもありません。どちらかと言えば、その領域を〈行ったり来たり〉するものなのでしょう。
自分のリストを作ること。それはつまり、他人のリストを混ぜないことです。
自分の人生を生きていくために、これ以上必要なことはないでしょう。

上記の1、と2、の間でtodoが混ざる。しかし、1、の限界を超えると自分が崩壊し、いきなり2、がゼロになる。これが家族にとっていいはずがありません。だから改めて自分のリストの確立すること、つまり「我に帰る」ことが必要だ、と感じました。

妻がよく言います。体調がきついから、代わりにやってくれ。これは、今までの私にとってほとんど「命令」でした。自分自身の体調や気分に関係なく、無条件かつ最優先に行うべきものでした。妻がどう思っていたかわかりませんが、結果としてそうなっていた。

しかし、申し訳ないけど、今後はもう無条件かつ最優先ではない。妻の負担を増やさず、私の負担も(大きくは)増やさず、かつ家がなんとか回る方策が最優先である。そのために、家のルールを変え、私の「リスト」を変える決断を下しました。

まずは自分のリストを整えること。これがシンプルに自分の人生を生きていく第一歩かもしれません。

混ぜるな危険、止まるな危険

正直申し上げて、今はタスク管理ができる精神状態にないのですが、

タスク管理の用語集: BizArts 2nd
(2017-06-27)
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そうなる前に、この本を読みました。

最近、とある理由により、精神的にとても不安定です。すごく簡単にいえば、心が折れた状態。なにもかも放り出してエスケープしたい状態。当然、こういうときは、頭の中はぐちゃぐちゃです。だから、正直タスク管理はやりたくないので、最低限のルーチンだけを回しています。

ただ、とにかく落ち着きたい、と思ったので、第2章の「リストの性質」だけを読み返していました。これはまさに頭の中を落ち着かせるための切り口をいろいろ書いてあるところだからです。そこにある重要な一説。

「今からすること」リストに思いついたことをどんどん追加してしまうと、それは「今からすること」リストではなく、「やるべきこと」リストなってしまいます。リストが変質してしまうのです。リストを切り分ける行為には、それを防ぐ意義があります。ここでも<混ぜるな危険>の原則が生きています。

そう、混ぜるな危険。
頭が落ち着いているときでさえ、ありがちなリストの混乱と変質。でも、こんな最悪の時の方が混ざらないのかもしれません。「早く食べて、寝よう!」という究極のクローズドリストです。あとは布団かぶってエスケープ。頭のなかで行きたいところリストをどんどん追加していく。まさにオープンリスト。といっても、メモをする精神状態にはないのですが。

ところで、「1日3回特定の薬を飲む」という行為は、間違いなく「やるべきこと」です。これをしないと場合によってはQOLの低下に直結します。

一方、それとは別に「頓服薬」があります。たとえば頭が痛くなったら飲む薬、と説明されます。ただし、痛ければ飲めばいい、とも限りません。私も妻も処方されている偏頭痛の薬(レルパックス)はひと月に10錠までしか処方できない、と医者に言われています。考えて使わないといけない。

こんな感じで「やるべきこと」と「やるべきでないこと」と「やりたいこと」が拮抗することが、ままあります。これは混ざる。絶対混ざる。正解はありません。でも、とにかく決めないといけない。あるだけの判断力とリソースと運に頼るしかない。しいて一つだけあげるとすれば、なんらかの優先順位でしょうか。ミッションステートメントのような高尚なものではない、本能的な思いつき。その根底に、頭の中の「リスト」があるように思います。

確かに頭の中が混乱するのは危険なのですが、現状のまま、足がすくんで判断しないことは、もっと危険なような気がします。こんな精神状態で「走り続けろ」というのは酷です。でも「止まるな」ということなら、できるかもしれません。

休養という名のタスク

夏休み。
子供たちの世話が一層大変になるこの時期に、逆に「休もう」という話で恐縮ですが…

残念な人類のためのタスク・スケジュール管理術:発達障害就労日誌

先日twitterで取り上げた方のブログです。この方自身がADHDで、読者もADHDの方を想定されたものですが、ADHDに向き合う人、私を含めADHDの方のタスク構築に向き合う人にとっても、非常に参考になります。このエントリで最も強調しているのは、

まっさらの手帳、あるいはインストールしたばかりのアプリに最初に記入するべきは、「最も重要で」「最も実行の容易な」タスクなんですよ。これを軸にして予定を立てるべきなんです。はい、具体的にそのタスクとは何か。休養です。何もしないというタスクです。

私もよく妻に言います。まず、あなたが休む日を取って、と。ところが妻はこれを実行しません。それには、いくつか理由が考えられます。

まず、妻が専業主婦であり、働いている私よりも時間の自由がきく、ということ。これは普通の専業主婦ならその通りですが、妻は普通の専業主婦ではありません。すぐに頭の中が混乱し、子供達を学校に行かせるタスクを終えた時点でかなりの気力体力を消耗し、かつ最低週1回はなんらかの通院が必要です。あっという間に時間が過ぎる。一見平日は容易に「休養」が取れそうなのに、結果的にできない。そして、常に子供がいる休日は言わずもがな。

もう一つは「私よりもあなたの方が大変だから先に(休みを)取って」。日本人の美徳、「譲り合い」の精神です。あの東日本大震災で被災された方が「もっと大変な方がおられる」と静かにおっしゃっていた光景を何度も目にしました。これはこれで(エゴ丸出しよりも)とても素晴らしいことなのですが、これが過ぎると、逆に「物事が進まない」という弊害が発生しかねません。そこで、そう言われたら、私は遠慮なく休むことにしています。でないと、妻が休まないからです。

人間は休日が大好きなくせに、いざスケジューリングをする段になるとそれを一番おろそかにします。しかし、このガンガンスマホが鳴りメールが届きラインがピンピンいう時代に、「休養を取る」というのは立派なタスクです。そこには明文化された意思の力が必要です。

そう、意志の力。「休養」というタスクは、実行は容易なのに、設定はとても困難です。特にやりたいことがいっぱいあるのに、そのやりたいことを押しのけて空白の時間を設定するということは、ADHDでなくても、実はとても勇気がいることなのでしょう。

そういう私も「休養」は滅多に取れません。家は休息の場所ではなく、常に家事育児に追われる「戦場」です。子供に対して、あれやれこれやれ、と言っている一方で、こちらが何もしないと「何サボってるの?」と言われかねない。だから子持ちの親御さんはなおのこと「休養」が取りづらい。これは本当に実感しています。

ただ「休養」というタスクは、「できるときにやっておかないと、いつまでたってもできない」という感覚に対する抵抗ではない。むしろ逆で、「休養」を意図的に設定することで実行可能な時間が制限され、本当にやりたいことが無意識にしろ選別される。

「子供に対してできる限りのことをしてあげたい」という思考に対する裏切りでなく、最終的には家族全員の心の平静という最も高い価値を産むもの。「休養」というタスクは、「サボる」というネガティブな感覚とは逆に、Quality of Lifeを高める近道の一つなのかもしれません。

どこまで削るか、どこまで言うか

私がワークライフバランスをなんとか維持してこれた理由が、これを読んでなんとなくわかってきました。

私はこれまで多くの上司に仕えましたが、このようなまともに「阻害する」タイプには会わなかったような気がします。職種によるところも大きいのですが、一つの大きな理由は、最初から自分の仕事を「制限」し、それを明確に宣言したからかもしれません。

ただ、問題は二つあります。どこまで制限し、どのように宣言するか、です。

私がワークライフバランスを維持できたのは、一つには単純に仕事の分量を減らしたからですが、なんでも減らせばいい、というものでもない。

自分が生活するための最低限のライン、そこまでなら減らせるし減給も受け入れられるライン。そこを探るには案外難しいような気がします。それこそ微妙な「バランス」が必要です。これが今のところたまたま上手くいったから、今の生活が成り立っている。仕事を増やすのは簡単です。なんでも言われたことを引き受ければいいのですが、減らすのは難しい。単にやめればいい、という問題ではない。

私の勤めている会社では、年度初めに各人の「目標」が設定されます。これは上司が勝手に決めるのではなく、まず自分が書いて、上司と相談の上で決めることになっています。ここで、ある大枠が決められる。これ以上のことはやらなくていい。もちろん諸事情で「これ以上のこと」をやる可能性はあるのですが、まず年度始めにベースラインを設定しておくことは、とても大切なことだと思います。

もう一つは、これを「明確に宣言」すること。これも言えばいいという問題ではありません。労働者の権利として、やった分にはお金をもらう。やらない分にはもらえない。その原則に従っていればやらない理由はなんだっていい。というのは、言い過ぎかもしれません。単に遊びたいから仕事を減らしてください、では論理的にはともかく、感情的には受け入れがたい。

さらには、話を聞く側の人(つまり管理者側)が「戦線拡大」つまり成長するのが当たり前というマインドだと仕事を減らすことを単純に理解できない、という反応も考えられます。しかし、そういう人も今後は減るかもしれません。というのも、幸か不幸か、話を聞く方も親の介護とかなんとかで「戦線変化」の問題は身近に感じているはずです。私の場合のように、妻が病弱で家を回すのが大変なんです、というと、これは人生における「戦線変化」です。仕事の面では縮小だが、家庭の面では拡大している。しかもその拡大/縮小の状況は常に変化している。ここにも「バランス」が存在する。

それでもとにかく、まずは言わないことには始まらない。理由は一通り整えた上で、シンプルに、できないんです、と。それこそが強者の論理と臆病者の論理を越える第一歩かもしれません。

畑を耕すこと、花を楽しむこと

このブログの更新頻度を少し上げようと思いました。

Evernoteとアナログノートによる ハイブリッド発想術
技術評論社 (2017-05-29)
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そもそもこの本を買ったのは、ブログの更新頻度を上げることが目的ではありませんでした。これまでアナログの手帳でやっていた日記もどきを、とある理由でスマホによるEvernoteに移行して、自分のメモのデジタル/アナログ比率が変化し始めたちょうどそのときにタイムリーな題名の本が目に入ったからです。

で、読み始めて、ちょっと面食らいました。前書きに 

本書は「アイデアの教科書」を目指しました。 

と書いてあったからです。題名を見て、実際のツールに関わることが多く書いてあるだろうと勝手に想像していたのです。

そして著者はアイデアを「畑」にたとえ、種から芽が出て身を結ぶまでの一連の動きと、それを助けるための便利なツールを説明しています。つまり、アイデアが文章になって世に公表されるまでの過程を丹念に追うことが重要であって、ツールはそのサポートに過ぎない。ただし自分にあった適切なツールの使い方をすれば、大きなサポートになりうる、と主張します。

一方、私がこのブログでやっていたのはせいぜい「植木鉢」で、しかもツールは最小限。ただ、ブログとして文章を公表するまでに頭の中でやっていた作業は、この本に書いてあることの一部を実際にやっており、そのことが言語化されたこと自体が、まず私にとって大きな収穫でした。それだけでなく、ほかのやり方もあるよ、と言われたとき、あ、そうか。と思ったのです。植木鉢ができるなら、プランターぐらいのことはできるかもしれない。そう思えてきたのです。

そういう目線で、改めてこの本を読み直した時、あ、植物育てるって楽しいよね、と思いだしてきました。今まさに、うちの子供達がやっていることです。毎日水やりして、草引きして、いろいろ整えて、、、と考えた時に、自分の中で最も楽しいステップが、この「いろいろ整える」という段階でした。もっと具体的に言えば、エントリーのタイトルを考える時。

普通の植物は、種を植えた時点でどういう花が咲くかはだいたい決まっていますが、アイデアの場合、どういう花を咲かせるかは自分で決めることができる。そして、どういう花にするかによって、その後で成る「実り」にも影響する。とても重要な作業です。私の場合もあっさり決まることがあれば、最後の最後まで決まらないこともあります。筆者はこの本の中で「キークエスチョン」の重要性を指摘していますが、おそらくそれは「タイトル」の重要性に直結するような気がします。

いきなりこのブログを毎日更新にする気はありません。植木鉢をプランターに変えるにはそれなりに準備が必要です。さすがに気合だけではうまくいかない。このブログを始めてほぼ2年。無理のないペースでアイデアの畑を耕して、その面積を少しでも広げることができれば、と考えています。

「余裕」がわからない社会、「違い」がわからない社会(2)

前回の続きですが、単にこういう社会はダメだ!という批判しているわけではありません。そもそも自分自身も今の社会を作り上げた一人ですから、反省の意味も込めて書いています。

ところで、前回

「誰それができたのだから誰でもできるはず」と思う人が多い社会

と申し上げました。これは「あなたは、私とは違う」、つまり「違い」の認識ができにくい社会である、とも言えます。「違い」の認識ができにくい、というのは、一つには日本がほぼ単一民族だから、というのもあるのでしょうが、それよりも、ただ単に「違い」を受け入れることのできる「余裕」がないからではないか、と思っています。

また、こんな社会になってしまったのは、社会を構成する人の大半が「余裕」のある社会そのものを経験していないのも原因のひとつではないか、と思っています。戦後の混乱、高度成長期、そしてバブル。「右肩あがり」ではあるが、しんどいのが当たり前と思っている。しんどくないのは罪とさえ思っている、とは言い過ぎでしょうか。もちろん、すべての責任を、そういうことを経験してきた年長者に押し付けるわけではありません。

そう、追い詰めないこと。単に余裕がないだけなら、わざわざ追い詰める必要がない。そんなことする時間があるなら、休んで気力体力の回復に当てればいいのに、わざわざやってしまう。これは「違い」に対する本能的な拒否反応から来ているような気がします。

自分とは異質のものなり人なりがいきなり目の前に現れると、本能的に防御の姿勢を取る。これはしょうがない。逆に言えば、異質のものに対する「慣れ」があれば、そうはならない。で、この「慣れ」は誰かから与えられるものではなく、自分で獲得しなければならない。もちろん幼少時には親がその環境を整えてあげた方がいいでしょうけど、ある程度歳をとれば、そうもいかない。「慣れ」は統一的な規格ではなく、個々人が持つ距離感のようなものだからです。

一方で、「慣れ」の獲得は相互作用ですから、「異質」側の行為も問われる。攻撃されれば怖い、という気持ちはもちろんわかるのですが、ひたすら隠すだけでは「慣れ」てもらえるわけがない。その意味で、今回のNスペのような、発達障害の当事者側からの積極的な発信は必要であり、とても勇気のある行動だと思います。こんな番組普通の人はわざわざ見ないよ、という声も多々あるようですが、それでも地道に繰り返すことでしか「慣れ」は獲得できない。

異質であることを、隠すのではなくさらけ出し、ある種当たり前として認知できる社会。それは、特にこの日本では、誰でもメディアになれる時代だからこそ近づいているのかもしれません。

「余裕」がわからない社会、「違い」がわからない社会(1)

先日のこの番組の影響で、私のTwitterのタイムラインが沸騰しました。

NHKスペシャル|発達障害 ~解明される未知の世界~

私のフォロー先(発達障害の当事者も少なからずいます)の評価は、概ね好意的に見えました。たしかに突っ込みどころはあるけど、まずはこういう番組がNHKスペシャルとして製作されて、不特定多数が見た、という事実だけでも大きな前進。私も、発達障害の当事者ではありませんが、同意見です。

そういった議論の一方で、いろいろ考えがタイムラインを流れていったのですが、その中で一番感銘を受けたのが、これでした。

これは、軽度のADHDである妻を毎日見ており、以前適応障害に関するエントリーを書いた私にとって、とても重要な指摘です。極言すれば、どれだけ脳機能に障害があっても、社会と折り合いをつけることができれば「生きづらさ」は感じず、あまり不幸にも思わない(そういうフリをしているだけ、であれば別)。

ところがADHDの程度が軽くても、ママ友との付き合いがきついとか、自分の頭の中がどうやってもまとまらなくて生活していくのに苦労する、という状況であれば、医師の正式な診断があろうがなかろうが、対処が必要な問題です。その生活は当然「社会」と密接に関係していて、社会とどう向き合うか、という問題に帰結します。

テクノロジーの発達等により人々が受け入れることのできる「総量」はたしかに以前より増えたけれど、社会が求める「総量」の増加は、それを上回っているような気がします。特に「誰それができたのだから誰でもできるはず」と思う人が多い社会では、これが顕著に出る。

自分たちで勝手にレベルを上げて、自分や他人の首を絞めにかかる。これはさすがにヤバい、と関係者一同が実感してやっと変わった典型例が、ヤマト運輸の昨今の対応だったような気がします。最低週に1回はヤマトさんや佐川さんのお世話になっている私にとっても、身近な、そして反省すべき事例でした。

社会の個々人が生活の質を上げようとして、社会に対して求める「総量」が大きくなると、シンプルに考えれば、社会の人口が増えない限り、逆に社会の構成員でもある個々人の余裕がなくなっていきます。そうすると、今までなんとか折り合いをつけることができた人がドロップアウトを余儀なくされる。これはどう考えても本末転倒です。

もちろん、質を下げて昔に戻れ、と言いたいのではありません。ただ、やはり色々な理由で、私たちは社会に対して何かを求め過ぎていたのだろう、という気がします。新たなテクノロジーが生まれて、それを試しに使ってみて、それを生活の質の向上の糧にするのはいいとしても、そこで達成された新たなレベルを、ありがたいものではなく「当然のもの」として認識された時、社会が少しずつおかしくなっていくような気がします。

この項、続きます。

死んじゃうさだめ、とのたたかい

金融危機がネタになれば、絵本もネタになりえます。

このあと どうしちゃおう
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私にとって著者の本は「りんごかもしれない」「ぼくのニセものをつくるには」に続いて3冊目。近くの本屋で平積みされていたのをうちの子供達が見つけて、買って買って、とせがまれました。この本は子供向けの絵本としては珍しく「死」に向き合ったもの。しかし、彼独特の文体はいい意味で重々しさを感じさせません。

本を開けると、いきなり「こないだ おじいさんが しんじゃった」という一文から始まります。ところが、その後、おじいさんが生前に残した『このあと どうしちゃおう』というノートが見つかって、それを読んだ主人公が「このまえ」、つまり自分が死ぬ前のことを合わせて考え始める、という筋書きです。

その『このあと どうしちゃおう』は、遺書ではありません。普通遺書というのは、この世に残された関係者に対してメッセージを残したりするものです。ところがこのノートには、自分が死んだらこのようにして生まれ変わりたいとか、こういうお墓や記念品を作ってほしいとか、つまり自分自身のことしか書いてない。まさにこれは、以前取り上げた「死すべき定め」の大きな主題のひとつである「一貫性」の問題です。

主題の重さのせいか、ブックレットが付録についており、著者へのインタビューが収録されています。そこに、こんな一文があります。

で、これは実感なのですが、人は死の間際になればなるほど、死について語れないんです。(略)父も母も健康で元気な時に、もっとカジュアルに死について話ができたらよかったな、と思ったんです。

これは重要な指摘であり、私自身の実感とも一致します。「死すべき定め」でも、自分が死ぬことについて自分自身が意識して、前もって周囲に話すことの重要性が指摘されています。そうすることで自分自身はもちろん、関係者一同のQuality of Lifeが逆に上がる。それは自分の「一貫性」を周囲に示すことで、それに寄り添った関係者の安心感や幸福感にもつながることだ、と思います。

そしてもうひとつ、こんな一文がありました。

「死んじゃいたい」と思いつめている子に、「死んではだめ」と言う前に、その子の視界がひらけるような、冗談なり小話なりといったものを大人がいかに持つか。

これは「死すべき定め」でも取り上げられていない指摘です。自殺願望を持つ人は、自分のやりたことができない、あるいは一貫性を保てないことがその大きな原因になっていることが多いと思いますが、そこをいかにやり過ごすか。特に一貫性を保ちにくい子供に対して、大人がどうやってサポートしてあげるか、ここは重要なポイントのような気がします。

実はこの本は昨年刊行されていますが、私が本屋で見かけたのは、最近のことです。季節的に子供達がいろいろと不安に思うことが多いこの時期に、本屋さんが仕掛けた、子供達へのささやかな応援だったのかもしれません。もちろん、私自身にとっても。

自尊心をくすぐるもの、自制心を崩すもの

この本が、このブログのネタになるとは、思ってもみませんでした。

ブーメラン 欧州から恐慌が返ってくる (文春文庫)
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ほとんど気晴らしために手に取った前著「世紀の空売り」の読み応えがあったので、その続編にあたる本書を読んでみることにしました。主題はリーマンショックに続く欧州金融危機。

「世紀の空売り」は、どことなく語り口にエンターテイメント的な感じがする(だから映画にもなったのでしょう)のに対し、今作はかなり落ち着いた、というより若干沈鬱な印象を受けました。

私は、欧州金融危機とは、お金のことに真面目とはいえない、ギリシャを始めとする南欧諸国を、他の国がいやいやながら助けている、という構図だと思っていたのですが、その認識は大間違いである、と著者は指摘します。アイスランド、アイルランド、ギリシャ、そしてドイツ。それぞれの国、あるいは国民性にこの危機を招いた要素があり、それが国によって明らかに異なることを映し出します。

この本を読んで私が関心を持ったのは、国によって大きく異なる「自尊心」と「自制心」の持ち方でした。

自尊心は人間であれば必ずといってもいいほど持っていると思います。(Aならかなわないけど)Bなら誰にも負けない、という心。私は「スペシャル」である、という心。こういう心を持つこと自体は問題なく、ある意味必要でさえいえるのですが、(私を含め)大半の人がよくわからない金融の話で自尊心がくすぐられると、大変なことが起きる。まして、もともと人間が本能的に溜め込もうとする「お金」の話ですから、問題は複雑です。

お金のことで自制心を失う問題は、単純に「うまい話に気をつけろ」という問題だけではないような気がします。一つにはバブル当時のように、周囲のみんなが「うまい話」を信じた状態で自制心を保てるか?ということ。もう一つには、バブルでなくても、ネットには自尊心をくすぐり自制心を失わせる情報がいくらでもある、ということ。だからといって、情報を遮断すればいいという話ではなく、事実上不可能です。では、どうすればいいのか?

「自己規制を拒むのであれば、我々を規制してくれるのは、環境と、環境が我々の権利を剥奪していくその過程だけです」(略)言い換えれば、意味のある変化を起こすには、必要量の苦痛を我々に与えてくれる環境が欠かせないということになる。

本書で登場するある学者の指摘です。この指摘をリーマンショックを重ねあわせた時、自制心を失った先にあるものは、相当にきついハードランディングを連想してしまいます。

一方で、多くのイノベージョンはある意味自己規制を突き抜けた先にこそある。リーマンショックはCDSというとんでもない金融商品のイノベージョンによって生まれたわけですが、逆に人々の幸福に資するイノベージョンも同様です。

私たちがみんなすごいイノベージョンを発明する必要がないにしても、「必要量の苦痛」の経て得られる変化、そしていい意味での自尊心の進歩は、自制心の適度なコントロールの先にあるのかもしれません。

How might we…

「今日をプロトタイプと考えよう。さあ、何を変える?」

クリエイティブ・マインドセット 想像力・好奇心・勇気が目覚める驚異の思考法
デイヴィッド・ケリー トム・ケリー
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この本は、私のような、いわゆる「クリエイティブ系」な職についていない人を含むすべての人が、「想像力に対する自信(クリエイティブ・コンフィデンス)」を発揮できるようにするためのガイドブックです。

著者によりわざわざ「日本のみなさんへ」という前文があり、そこには日本人に対する心からの応援が書いてあります。世界5か国5千人のアンケートで、日本以外の国の回答者は日本が世界で一番クリエイティブだと言っているのに、日本人は自身が最もクリエイティブだと回答した割合は最低だった。でも、実際はそんなことはないだろ?日本人はもっと自信を持っていいはずだ、と著者は言っています。

もしかしたら、私たちはクリエイティブという言葉を誤解しているのかもしれません。iPhoneを発明することだけがクリエイティブではないはず。誰でも自信を持って、自分の人生を、世界を、変えることができる。ポジティブすぎるかもしれないけれど、著者はそう言いたいのだと思います。

さて、その自信をつけるやり方は、実にシンプル。とにかく、毎日、実践あるのみ。ほんの少しでもいい。何かを作って、何かを変えて、結果を見て、次に進む。それだけです。その具体的な手法や考え方が、この本には満載されています。

その導入編が「恐怖への克服」であることはとても示唆的です。とにかく何か新しいことを始めることに対する恐怖や不安は誰しもが持つことです。特にここ日本では、何か「変わったこと」に対する世間の目は常に批判的です。小さい頃、友達に「その絵へたっぴ〜!」と言われただけで絵の才能を放棄する、というのはよくある話ではあるが、あまりに惜しい。だから、何か突拍子もないことをやって、それを周りの人々に受け入れられるようにするには、それなりの作戦が必要かもしれません。

その幾つかの作戦の中で、特に気に入った言葉が二つありました。一つ目が「カラオケ・コンフィデンス」です。そう、日本が世界に誇るべき文化であるカラオケは、人々にクリエイティブ・コンフィデンスをも与えるきっかけを持ちうるものなのです。なぜ私たちは、ああいう場ならマイクを持って恥ずかしげもなく歌うことができるのか?を考えれば、自分が変わるヒントがあるかもしれません。

もう一つが、タイトルに挙げた “How might we…” です。私たちは、どうすれば〜できるだろうか?なんでも否定するのではなく、仮にこうしたら、私たちはこのようにできるかもしれませんよね?と問いかける。

主語がyouでもIでもなく、weであるのがポイントです。君はこう変えるべきだ、と言われると、誰でも本能的に抵抗する。私はこう変えたい、というと、恐怖感が増す。日本語だと必ずしも主語を明示しないので感覚が異なりますが、とにかくいろんな意味でハードルやガードを下げやすい言い回しだと思います。

冒頭の一文も、この本の中にあった一節です。いかにもプログラマっぽい、いや、ものづくりっぽい言い方ですね。1日1日は、過ぎていくのではなく、作り出していくものなのかもしれません。